 |
| 相国寺(写真奥)から御所用水が引き込まれていた今出川御門=京都市上京区 |
明治時代まで京都御所(京都市上京区)に引かれ、現在は消失した御所用水(禁裏御用水)について、京都工芸繊維大学の小野芳朗教授(都市史、環境史)が研究を進めている。古文書などを詳細に読み解くと、水が豊かとされる京都で、意外にも御所が水の確保に苦労していた様子が浮かび上がってきた。
■明治期まで 農業・発電に取られ
御所用水は、江戸時代以前に整備され、当初は現在の京都市北区小山から鴨川の水を取り入れていた。上御霊神社(上京区)付近や相国寺(同)を通って今出川御門から御所に引き入れ、防火や庭園用に使われていた。
上賀茂神社に伝わる古文書などから、水が途中で農業用などに取られ、しばしば御所まで届かなかったことが分かった。このため御所側が、水の配分を管理していた神社側にたびたび水を流すよう要請するなど、水確保に苦労していた様子がうかがえる。
江戸時代まで、御所はたびたび火災で焼失しており、小野教授は「防火用水としての効果も薄かった」とみている。
明治時代になると、琵琶湖疏水(1890年完成)の分線から水を取り入れて水量を増やす「再建」が試みられた。しかし、疏水の建設途中で、水を水力発電に充てることに計画が変更されたため、当初の予定より御所用水向けの水量が減らされてしまった。
京都府行政文書などからは、その後もたびたび用水を改修していたことが判明。「水量は不安定だったようで、防火用水として役に立ったかどうかは疑問」(小野教授)という。1912(大正元)年、疏水の水を蹴上から取水する「御所水道」の完成に伴って用水は役目を終え、現在はほとんど痕跡が残っていない。
小野教授は「用水を再建したのは、東京の明治政府が、天皇家のふるさととして京都御所を重要視していた証ではないか」と推測している。
|