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先祖が紡いだ縁 今も

(弐)紀楳亭とお貞さん
(写真左)庭から玄関へ。緑の風が吹いてくるよう(京都市下京区・杉本家住宅=撮影・吉田清貴)
(右)紀楳亭(九老)の蓬莱群仙図(財団法人奈良屋記念杉本家保存会所有)

 遠い先祖の昔を紐(ひも)とく。すると、一重(ひとえ)であった紐が、いつしか八重(やえ)となり、末広に分かれたうちの一つが今に至ることが知れる。これまで、この家から嫁いだ娘たちも、他家(よそ)でひと筋の歴史をつないだことを願いたい。

 しかし、その命を次へ渡すことができなかった娘がいた。二百九年前、二代目新右衛門(一七三五−一八〇五)の娘(注1)は、嫁ぎ先で若くして亡くなっている。享年二十歳。名は、貞(さだ)。

 お貞さんは、大津の桝屋町で両替商を営む五代目鍵屋五兵衛中村愈鄂(ゆがく)に嫁いだ。そして、数年の結婚生活で子をもうけることもなく逝ってしまった。

 お貞さんが嫁いだ中村家は、紀楳亭(きのばいてい)(注2)に住居を世話し、その後も援助をした家である。楳亭が大津に移り住んだのは天明九(一七八九)年だから、お貞さんが嫁いだころ、すでに楳亭は借家していた。

 楳亭は、天明の大火(一七八八)に京を焼け出され、大津に居を移した絵師である。京時代に蕪村(注3)に学び、すぐれた文人画山水、俳画を描き、近隣の商家の床や座敷に興を添えていた。当時の住まいは、杉本家に近く、高辻新町西入町。

 京の楳亭と先祖の交わりは定かではない。かえって大津にいたってから確かなものになったと思われる。

 お貞さんの婚儀以降、中村家とは挨拶(あいさつ)状、贈答を親しく交わしていた。楳亭の人柄、画業が中村家当主や、お貞さんを介してこちらに及んだことは間違いない。

 お貞さんが亡くなった後も、中村家との親交は厚く続いた。そんな中で、楳亭筆なる三幅「蓬莱群仙図(ほうらいぐんせんず)」「郭子儀(かくしぎ)」「翁(じょう)と姥(んば)」は、こちらに入った(現在は財団法人奈良屋記念杉本家保存会が所有)。

 お貞さんは、実家のある綾小路新町あたりをよく知る楳亭を、年も似た実父の姿に重ねて慕ったことだろう。楳亭もまた、大火の翌年になくした娘さとの姿をお貞さんに重ねて見たに違いない。

 お貞さんの亡き後、愈鄂は後妻をとることはなく、養子を迎えた。

(奈良屋記念杉本家保存会学芸員)

 (注1)貞(一七七九−九九) 名は、杉本家の家系図に従えば貞。ただし嫁ぎ先の過去帳によれば、りつとなっている。
 (注2)紀楳亭(一七三四−一八一〇) 天明二年版『平安人物志』にその名を見ることができる。京時代は「巖郁(がんいく)」と称した。俳号は「梅亭」。画号は「楳亭」および「☆美(ばいび)」。大津時代以降は「紀楳亭」。還暦後は「九老」を用いた。※☆は「呆呆」
 楳亭の描く人物、小動物の瞳は優しさに満ち、ちゃめっ気も感じられる。楳亭の人柄をうかがい知ることができる。
 (注3)与謝蕪村(一七一六−八三) 摂津の生まれ。俳人、画家。日本文人画を大成する。京に定住したのは一七六八年。

【2008年5月12日掲載】