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ハレの前 ケの下の闇に光

(参)間(はざま)
(写真上)ひんやりとした空気。湿った土のにおい。床下は「間」の空間だ(京都市下京区・杉本家住宅=撮影・吉田清貴)
(下)何十年も履き込まれた藁(わら)ぞうり。楽しかった思い出がよみがえる

 幼い頃(ころ)のこと。祇園祭を間近に控えた六月。心おどる楽しい一日だったのが、すす払い。手伝いの男衆も朝早くから集まって、一日がかりの大掃除。この日ばかりは、畳を上げた家の中を藁(わら)ぞうりを履いて歩く、というのが特別な興奮を覚えるのにひと役かっていた。

 特別と言っても、決してハレ(祭)ではない。かといって、ケ(平生)でもない。ただ、ぽっかりと口を開けた日。

 畳のない部屋は、朝から黒ぐろとした床板をさらけ出してガランとしている。常より薄暗く感じられる室内からは、庭の木々が白い光の中に遠のいて見えた。

 そのうち、床板までも上げられる。開いた四方の穴から下を覗(のぞ)きこめば、乾湿のまだらに入り交じった冷たい匂(にお)いが漂って鼻腔(びこう)をくすぐる。

 そこに間(はざま)はある。  空虚で、踏み込まれることを拒むような広がり。意表をつく空間がそこに淡々と時を刻んでいる。ここを覗くときには、いつも足をすくわれる思いがする。床上の暮らしが、まるで水面に浮かぶ睡蓮(すいれん)の葉の上を歩いているように不確かであったのかと思われて、ドキッとする。

 下方に向かう穴は、別な世界への入口として、ひとを誘うもの。

 例えば、昔話の「鼠(ねずみ)長者」は、地面の下に浄土があるはなし。また、珍皇寺(ちんのうじ)の小野篁(おののたかむら)(注1)は井戸を通じてこの世と冥途(めいど)を往来した。

 しかし、いずれも地面の下の話。

 床下は、浄土でもなければ地獄でもない。ケと忌みの間(はざま)の世界。日常の下に広がる空間。人知れず鼠、猫、鼬(いたち)、蜘蛛(くも)、白蟻(しろあり)が通り、そして、いつかの大掃除の日にでも付いた誰かの痕跡の残るところ。

 床下に異常がないかを確かめたのち、床板は合印を頼りにして元通りに敷かれる。

 午後二時過ぎあたり、畳の癖を良く知った中川という畳屋の主がやって来るのが常だった。小刻みに畳を踏み歩き、足の裏で畳の敷き具合を確かめる。

 今にして思えば、あれはまさに三番叟(さんばそう)(注2)。間を封じて、地を固めなおすおまじないであったのか。

 過去と未来の間に身を置く証しに、こっそり置いた足跡を床下に残して、平生が戻ってくる。

 そして、いよいよお祭り。

(奈良屋記念杉本家保存会学芸員)

 (注1)珍皇寺は鳥辺野(=あの世)へ通じる場所、六道の辻(=ここから冥途へ行く道がある)にある。この寺は、閻魔(えんま)大王と小野篁を並べて安置。この寺にある「迎え鐘」(=綱を手前に曳いて鳴らす)は、あの世にも響くといわれ、とても良い音色をもつ。京都では、お盆の精霊迎えにこの寺へ参る風習も残る。
 (注2)能「翁」の狂言「三番叟」の舞のこと。もともと能が田楽であった頃の田植えの儀式に由来し、天下泰平、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、国土安穏を祈る神事的な演目。地を踏み、種をまく動作がみられる舞。

【2008年6月9日掲載】