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世の変貌映す嫁入り行列

(七)明治婚儀の次第(下)
(写真上)あんどんの光に浮かぶ、たつの花嫁衣装。雌雄の孔雀(くじゃく)の刺しゅうが華やかに施されている(京都市下京区・杉本家住宅=吉田清貴)
(写真下)6代目の結婚時の祝儀袱紗(ぶくさ)(1860年代ごろ)

 幕末から明治維新にかけての人々のことを想像してみる。京は政治混乱の渦中。

 蛤御門の変(注1)、物価の高騰、神仏分離令(明治元年=一八六八年)、東京遷都となれば、先行きの不安はいかほどであったか。民衆は、もうわけも分からないまま、ただ必死で日を重ねて生きていたと思う。それでも日常の暮らしの変化は、目に見えて洛中を変貌(へんぼう)させていく。洋髪が推奨され、西洋建築も建ち、町の色や形、口にする味覚にも新しい感覚が芽生え始めた。そうするうちに、ふと自分たちの日常が江戸時代とはずいぶん異なってきていることに気がついたと思う。

 明治二十二年になると、東海道線の新橋と神戸間が全線開通。鉄路で一気に東西の距離が縮まった。

 電気が使えるようになった京では、明治二十八年に日本初の電気鉄道(後の市電)が走るようになり、普段の足の便も目覚ましく変わった。時間の感覚も変わっていった。

 こうして、日常が時代を鵜呑(うの)みにして明治は突き進んだ。

 しかし、時節の節目、祭礼儀式となると、そう簡単には変わらない。受け継がれてきた非日常の特別な行いは、時代の最後尾をゆるゆると進む。

 明治二十七年の婚儀も、古風な習わしを基本に進められたのだが、この婚儀の成立に、ひとつの近代を見ることが出来る。

 それまで、当家の嫁取りは、新婦の荷物納めの行列も徒歩ですむ距離ばかり。京を離れた遠方から嫁をもらった前例はなかった。この縁談は、まさに鉄道の開通という近代の産物によって成立をみたといえる。

 それにしても、縁談から婚儀、里帰りに至るまで、汽車による京都と名古屋間の往復は、かなりの人数と回数をみた。汽車賃(注2)だけでも相当な入用となったはずである。遠方からの縁談は、往年の家の勢いを語ってもいた。

 近代の結婚。お国の違う者同士の生活は、聞きなれない言葉遣いや習慣の違いに、双方とも戸惑うことも多かっただろう。

 婚儀の後、祝膳(いわいぜん)の日々が続き、十六歳の新婦おたつさんが里帰りできたのは、ひと月半もたった日のことだった。

 どのような思いを胸に仕舞(しま)い汽車に乗っただろう。午前十一時三十五分京都駅発の汽車は午後三時すぎには名古屋駅へ到着したはずだった。ホームに出迎える見慣れた顔、耳に飛び込む聞きなれた言いまわし。ぎゅっと締めた帯を解くような心地がしただろう。

 手土産は、抹茶羊羹(ようかん)の若緑十棹(さお)。ずっしりと重たい京土産だった。

(奈良屋記念杉本家保存会学芸員)

 (注1)「元治元(一八六四)年の大火事」または「蛤御門の変」、「鉄砲焼け」とも呼ばれている大火事。長州藩屋敷内から出火し、北風にあおられて燃え広がった。北は中立売、西は堀川、南は七条、東は鴨川までの四方を焼き尽くした。
 (注2)当時の汽車賃は、九十銭、一円八十銭、二円七十銭の三種類。ちなみに帝国ホテルの宿泊費は明治二十三年の開業当時で二円五十銭。白米は、明治二十五年で十キロ六十七銭。

【2008年10月06日掲載】