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引き受け引き継ぐ暮らし

(八)未来への記憶
(写真上)祖母の机が置かれている八畳の間。障子に木漏れ日が揺れている(京都市下京区・杉本家住宅=吉田清貴)
(写真下)陽光を受けて照り輝く庭の錦木(にしきぎ)の葉。秋の風が木々を渡る

 かつて祖母の部屋だった八畳の間。西側を四枚の障子で仕切った向こうには、湿り気を帯びた露地庭が続き、西日が差すと、障子には木漏れ日がゆれる。さらさらと庭木のあいだを抜ける風の音を障子越しに聞いて、季節の気配を感じる暮らしは今も残されている。

 その部屋の北西の隅に祖母は机を置いていた。きちんと整えられた引き出しの中は、祖母の性分をよく伝えている。

 どんな小さな欠片(かけら)でも、手元から物を離すときには、必ず「これ、何んかの役にたたへんかいな」と一度は思案して、容易に捨てることはなかった。だから、そこに入っているものといえば、ちびて堅くなった消しゴム、短い鉛筆、反古(ほご)紙、針金の切れ端、ちょっとした金具類がさまざま、お菓子の小さな空き箱に入れられている。すべて、日常の小さな残骸(ざんがい)ばかり。

 いつのことか知れない未来の何時(いつ)かの日用品のほつれを直すため、その備えとして残された品々。

 何も無駄にしない。始末する、とはそういうことだと教えてもらった。

 昔ばなしに聞いた先祖のこと。毎日決まった掃除を淡々とこなして過ごした祖母の後ろ姿。日記ではなく、未来のために書き残された覚書。どうやら町家の暮らしは、こうして残された記憶、記録を引き受け、引き継ぐことのように思われる。

 近年、古文書などに触れて先祖の足跡をたどる日々のなか、出くわしてひときわ嬉(うれ)しいのは、こうした何でもない品や覚書のたぐい。そこに、未来を託す者への愛情を強く感じることができる。

 そうして蓄積された歴史を未来のためにきちんと始末する役目が訪れている。埃(ほこり)だらけの歴史の欠片。幾度となく始末の選択に掛けられた末、取りあえず中途半端な判断のまま残されてきた使いものにならない日用品の数々。この期におよんで残すもほかすも、二つにひとつの決断を下すことは、いちいち精神を消耗させる。めっそうもない判断を今さらつけられない。

 そんな気持ちでいると、決まってひとつのイメージが、ある作品の形を借りて現れる。

 ちょうど中ほどにさしかかって開かれた分厚い本の一ページ。まさにぺらりと繰られようと立ち上がっている。先に繰られようとしているのか、後戻りしようとしているのか、その判断は観(み)る者それぞれの心象に任されている。それは陶芸家、八木一夫(注)の代表作のひとつ、『頁1』。

 今を推し量る標準を未来にあわせると、この記憶された一ページを心置きなく繰れるのだろうか。

(奈良屋記念杉本家保存会学芸員)

 (注)八木一夫(一九一八−一九七九)は、三十歳で「走泥社」を結成。オブジェ焼きなど、陶芸の用の枠を超えた作品を多数残した。文中の作品は、七一年に発表された。

【2008年11月10日掲載】