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空想掻きたてる伏見人形

(十一)形の生命
(写真上)伏見人形の名工・欽古堂亀祐がつくった愛くるしいおさるさん
(下)京の多くの家々では「おくどさん」の近くに初午で買ってきた縁起物の布袋さんが並べられることもあった(京都市下京区・杉本家住宅)

 JR稲荷駅の改札を出ると、間近に大鳥居の見える本町通に出る。かつて、深草からこの辺りには伏見人形(注一)の窯元や店があり、陶工も多く住んでいた。稲荷山から採れる質の良い粘り気の強い土は型による成形に向き、伏見人形は初午(はつうま)の土産物として大変な人気があった。そしてこの地が欽古堂亀祐(きんこどうきゆう)(注二)なる名工を出した。
 この亀祐の作った愛くるしいお猿の人形がひとつ、家のおくどさんの脇で黒く光っている。小さく丸い頭、まん丸のつぶらな瞳、つるりとした鼻筋。なで肩から下がる両腕はおへその辺りに宝珠を抱えている。型による薄作りのやわらかい焼きで中は空洞。洞内にその名が掻(か)き刻まれている。

 京の家々におくどさんが残り、そこに火が入れられていた頃(ころ)。毎年初午にお稲荷さんへ詣で、布袋さんを一つ買って帰るのを習いにしていた家も多くあった。布袋は一年に一体ずつ、小から次第に大へ七体から十二体揃(そろ)える縁起物で、途中家に不幸があるとそれまでの布袋さんは川に流すなりして始めから揃え直す風習であった。おくどさんの近くにずらりと煤(すす)に黒さを増して並ぶ光景は、その家の平穏な年月を表していた。
 伏見人形には布袋のような縁起物のほかにも多種多様な形があった。こうした土産物としての伏見人形に作者のわかるものは少ない。店が持つ型を用いて生み出される名もない形は数知れず、そのうちの数体が後の世まで形をとどめ、脳裏にとどまる力を得る。

俵を曳く牛の伏見人形

俵を曳く牛の伏見人形。子供の想像力をかきたてた

 俵をいっぱいに乗せた台車を曳(ひ)く牛の伏見人形は、そうした一つ。いつもうす暗い洋間のマントルピースに置かれていた。
 幼い頃、その人形にふと目がとまった。その時に頭の向きを見誤って以来、それは空想力だけは旺盛な子供の目に頭でっかちな化け物と映じ続けた。車輪は大きな瞳に。山と積まれた俵のでこぼこは大きすぎる不気味な頭に。その頭部の左に付け足しのように細い胴体がくっついている。本来の牛の頭は化け物のしっぽにすり替わっていた。
 その前を往復しないと取れない夕刊を持ってくるように言いつけられたときの胸の鼓動。夕闇に呑(の)まれる洋間で、この化け物と目を合わさぬように新聞を手にすると一目散に走った。
 この幻惑に気がついたのは中学生の頃だった。
 魔力が解かれた化け物は、「俵を曳く牛」の置物としてようやく収まったが、あの突拍子もない空想を掻きたてたのは形に内包された力の成せる業ではなかったか。生き生きと生命の宿る形、それは常にゆらいで想像を誘っている。

(財団法人奈良屋杉本家保存会学芸員)
(注一)伏見人形の起源は諸説あるが、その一つには、東福寺開山堂に安置してある布袋像をその始めとするものがある。
 一時(いっとき)までは土産物としてさまざまな伏見人形が盛んに作られていたが、それを売る店も今では本町通に一軒を残すばかりとなった。
(注二)欽古堂亀祐(一七六五−一八三七) 伏見人形の窯元と店を兼ねた家に生まれ、奥田頴川(えいせん)に青磁を学んだ。特に型による制作に秀(ひい)で、伏見人形の型を種々豊富にしたことでも名を残した。同じく頴川門下で名工の一人、青木木米(もくべい)にも型の技法を教えた。

【2009年2月2日掲載】