京都新聞TOP > 文化・文芸・教育アーカイブ >政治家論
インデックス

(3)“劇場型”の虚実 演劇評論家 太田耕人さん

覚めた感覚で読み解く必要
おおた・こうじん 京都教育大教授。1956年生まれ。筑波大大学院博士課程中退。専門はイギリス演劇。演劇批評を京都新聞や専門誌「テアトロ」などに連載する。共著に「シェイクスピアを学ぶ人のために」など。4月から京都芸術センター運営委員長を務める。

 「劇場型政治」というように政治が演劇的になったのは、小選挙区制で二大政党の中道化が進み、昔ほど対立軸が明確でなくなったからです。その結果、政治家たちは、何をするかより、どう感じたかを巧みに表現して違いを際立たせようとする。世界的に同じ傾向があります。

 英米では1990年代から「政治の演劇化」が注目されましたが、その中身はかなり違います。

 日本の4年前の郵政選挙は「守旧か改革か」という善悪の二項対立、「刺客」候補の登場で劇的に仕立てられた。葛藤(かっとう)が起こり、それが解決されるのが演劇の原初的な筋立てで、それに即した分かりやすいドラマでした。

二重写しで見る

 一方、英米では政策や信条を効果的に訴えるために、政治家がスピーチライターやメディア対策の専門家を雇います。つまり、脚本家と演出家。これが彼らの言う「政治の演劇化」で、国民の側も「どんなふうに演出するか」と、冷静に対応しています。

 僕らは芝居を見る時、俳優とその俳優が演じる役柄を別のものだと知りながら、二重写しで見ています。例えば、年配の女優が少女を演じるのを見て感銘するのはそのためです。同様に、その人の人間性と政治家としての有能さは、ある程度区別して見るべきかもしれません。米国のクリントン元大統領は不倫疑惑会見前、何通りか試演をして最善のものを選んだといいます。米国民は演出されたものとして謝罪を受け取り、その出来と内容を判断した。これも一種のメディア・リテラシー(読み解く力)です。

「演出」の意識を

 映像メディアが発達し、政治が「演出される」現実は日本でも進んでいます。それなのに僕らは、オバマ米大統領の演説を書いた26歳の若者のことは知っていても、首相の演説原稿を誰が書き、どんな企業が広報対策をしているか、まったく知らない。政治の演劇化をあまり意識していない。だから「小泉劇場」に陶酔してしまった。

 日本人は演技イコールうそと考えがちですが、そろそろ効果的に自分を伝える方法として、演技をきちんと評価してはどうでしょう。もちろんうわべだけの「演技」は困ります。でも、演じるうちに、役が体に染み込むこともある。良い俳優ほどけいこ場で苦労して役を作り上げ、一度すべて忘れて、舞台では初めてのように振る舞う。演技だが、演技でなくなる。

 無論、注意は必要です。一般に人が劇場に行くのは、劇世界を現実であるかのように錯覚し、その世界に浸るためです。しかし、ナチスドイツから亡命した劇作家ブレヒトは言いました。俳優の演技で「観客の神経が、とりこにされればされるほど、観客には物事の関係が見えなくなる」。ブレヒトは観客が劇にのめり込み始めると、俳優に観客に話しかけさせて、これは芝居ですよ、と観客の目を覚ました。演劇の「催眠術」にかからず、劇の内容を覚めた頭で判断するように仕向けた。それは観衆を高揚させるヒトラーの演説への警告でもありました。

 現代から見ると、ヒトラーのあんな大げさな演説に引っ掛かるのはおかしい。80年代のレーガン元米大統領の演説も今では演技過剰に映る。リアリティーは時代によって変わります。理想のリーダー像も威厳や強さより、僕らと同じ感覚で将来を語るさりげない「演技」が今は好まれます。

 私たちが政治家に求めるものも揺らいでいます。誠実さや一貫性を注文しながら、前言を翻してでも国益を守る勇気、柔軟さも望みたい。もしすべてを兼ね備えた政治家が現れたら? 熱狂的に歓迎するのでなく、「覚めた感覚」で見よ、というブレヒトの言葉を思い出すべきでしょうね。

私が望む3つの資質

◆感じたことを表現する能力
◆「空気」を読む力
◆「普通の人」の感覚

【2009.06.05掲載】