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(2)代議制の不全 社会学者 大澤真幸さん

閉塞した状況 希望提示せよ
おおさわ・まさち 京都大大学院人間・環境学研究科教授。1958年長野県生まれ。東京大大学院博士課程修了。千葉大助教授などを経て現職。専門は比較社会学、社会システム論。著書に「ナショナリズムの由来」(毎日出版文化賞)「逆説の民主主義」など。

 現代の日本社会に民意は存在するでしょうか。私は懐疑的です。

 民意とは、世論調査の結果が示す多数派とか、平均的な意見とは違う。何らかの共同体への所属意識がある人々が作り出す、共同体そのものに帰せられる一つの意志や価値判断とみるべきです。

 「裸の王様」という寓話(ぐうわ)で考えてみましょう。誰もが「王様は裸」と思っていても、皆が「王様は豪華な服を着ている、と見なすことが適切」と判断すれば、それが「民意」になる。現実社会でも同じ。個人の思いは違っても、共同体にとって何が妥当か、という判断で作られるのが、政治に作用する民意なのです。

 ところが地域社会や企業などの共同体が崩壊してから、思想や生き方は違っても互いに共同体の一員という連帯感は幻想になった。だから人々に所属意識はなく、まるで電車に偶然乗り合わせた乗客のように振る舞う。そこに民意はない。

疎外感の生む危うさ

 民意がないと、どうなるか。代議制が十分に機能しなくなる。代議制は優れた民主主義のシステムと思われているが、前提として、自分の意見が誰かに吸収、代弁されている−という感覚を持つことで成り立つ。自分の意見と「民意」の間につながりを感じなければ、政治に関心はなくなる。

 一票がどれだけ政治に反映されるかという有効性は、数学的に昔とそう変わらない。でも主観的感覚が変わった。今の日本人に目立つのは「誰も自分を代弁してくれない」という疎外感です。

 危険なのは、有権者の約半数が棄権するという無関心だけでなく、逆に政治意識が急激に高ぶることです。人々の不満に乗じて、既存の議会政治を否定する政治家が現れ、「代表されない人々」が熱烈に支持する。かつてファシズムはそうやって生まれたのです。

 2005年衆院選の小泉自民党圧勝も、そんな「疎外感」が後押ししました。郵政民営化という政策自体、切迫さも国民的な関心もなかった。だから民主党は年金から自衛隊派遣まで「あらゆる論点」を訴えた。なのに国民がそっぽを向いたのは、どの論点にもピンとこない人が多かったからです。

 これは一種の「ファミレス感覚」に近い。ファミリーレストランには和洋中華の全メニューがそろっているが、欲しいものが見つからない、という状況です。どの公約も無意味に感じる人は、極端でも新鮮な政治に飛びつきやすい。グローバル資本主義を掲げた小泉改革に対し、それで割を食いそうな若者らが支持した奇妙な構図も、「郵政」一点に固執し、他はどうでもいいと言わんばかりの拒絶のポーズに共感したのでしょう。

 派遣切りなど格差問題の厳しさは、経済的困窮にも増して、社会で自分が必要とされず、政治的にも見捨てられているという実感にある。解決する手段が民主主義の枠内にない、との絶望感があるため(赤木智弘氏による)「希望は、戦争」のような言説がでてくる。

官僚にできないこと

 そんな社会では、利害調整型政治は限界です。ファミレスで予算内で食べたいものを皆で調整するような政治は、「豊かで民主的な社会」を目指した高度成長期には機能した。でも、そんな共同体意識に支えられた「民意」がない今、既得権益を持たない人は逆に疎外感を強めてしまう。

 閉塞(へいそく)した状況で政治がやるべきことは「希望」を示すことです。可能な選択肢の内部で考える官僚と違い、実現不可能と思われることが十分に可能だというのを示す者こそ政治家です。安全保障でも環境問題でもいい。それには無謀とも言える決断力、決してスマートではない想像力がいる。

 「民意」が議会を否定する危機を招かないためにも、私たちは代議制のもどかしさを受容しないといけない。そして、政治家は「代表する者」として、守備範囲内で責任を負う官僚とは違った、非合理ともいえる責任感を発揮してほしい。

私が望む3つの資質

◆無謀な決断力
◆愚鈍な想像力
◆非合理的な責任感

【2009.06.26掲載】