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みんぱくに出会った千家十職

(10・完)金物師 故十一代中川淨益さん
在りし日の中川淨益さん。ファッションにもこだわり、黒のタートルがお気に入りだった
 「なんでもっとはよ、言わへんかったんや。三年前やったら…」。故・中川淨益さんから、国立民族学博物館(大阪府吹田市)の特別展実行委員佐野惠子さんへの二度目の電話には、悔しさがにじんでいた。
 特別展の準備が始まったのは三年前。佐野さんは、当時、十職の最長老だった中川さんに、趣旨説明の手紙を出した。  届いたその日に電話があった。「この展覧会はおもしろいと思う」。二度目の電話を受けたのは、さらに詳しい手紙を送ったあとだ。「僕としたら、もう体力がない」。
 その後、折々に電話がかかってきた。短い通話で話すのは、体調や近況報告だった。
 最後の電話は、淨益さんが亡くなる半年前。八月一日の「八朔(はっさく)」で表千家家元を訪ねたことを話し、「要望だけ言っときます。これを遺言だと思ってください」。大阪の美術商に歴代作品も含めて託したことを伝え、「それがぼくの参加の形。あと、よろしく頼む」と告げられた。
 新たなものづくりはかなわなかったが、特別展には、淨益さんが最期まで手元で見つめた水指(みずさし)の木型が並ぶ。

木型に魂遺し「あと、よろしく」

淨益さんが最期まで手元に置いていた水指の木型(左)。いつもより5ミリ程度背丈の高い水指を思い描いていたという(国立民族学博物館提供)
 「初めてお会いできたのは遺影だった。お目にかかれなかったのが心残りだが、ものづくりの原点に共鳴していただいていたと思う。木型は淨益さん自身。今も一緒に動いてくれてはる気がする」と佐野さんは語る。
 最後の木型。淨益さんの妻容子さん(75)は「ずっと見てて、ここをどうしたらとか考えてた。お台所の棚の空いたスペースに置き、ご飯食べながらとか、テレビみながら、ゆっくりしたいときに見てはった」と明かす。
 闘病生活は九年間におよび、特別展の相談があった時期は、ほとんど仕事はできなかった。「一つ新しいものを作るのに、時間がかかる。できてもつぶさはる。どこも悪いとは思えないのに」
 金属素材の風合いや目的に応じて、茶道具に仕立てる金物師は、その工程も複雑で、繊細な技術が求められる。机の上の鉛筆一本触ってもわかる几帳面(きちょうめん)な性格が、半端なものづくりを許さなかった。
 容子さんとは、十四歳年が離れていた。「柄や図面を相談されることもあった。でも、基本的には仕事のことは何も言わない。夜中でも何か思いついては、メモしてはった」としのぶ。一方でヨットや大型バイク、クレー射撃を楽しむ行動的な面もあった、という。

線と面の美しさ 冷たい金属に温かみと潤い

 七年前、表千家北山会館(京都市北区)で「千家十職 中川淨益家の金工・茶の湯工芸の伝統と創造」が催された。その際、静かに語られたものづくりの哲学が心に残る。
 「私のものづくりは、線と面の美しさを出すこと。金属素材は、同じようなものが複数できるところに特徴がある。その特徴を逆手にとり、冷たい金属に何らかの温かみ、潤いを持たせたい。それが彫刻であり、槌目(つちめ)であり、着色。また、誰もが使える道具でなければ。私が作るのはお茶をたしなみ楽しむためのお道具で、美術品ではない」。初代以来の作品を前に「代々の積み重ねがあってこそ、今がある」。姿は見えずとも、道具の一つ一つに、その魂が宿る。
【2009年5月28日掲載】
 中川家 天正年間に越後から京に移り住み、武具を制作していた。打物(うちもの)を得意とした初代紹益が、千利休の求めで「利休薬罐(やかん)」などを作ったのが家業の始まりとされる。千家出入りとなった二代が表千家四代江岑宗左の勧めで淨益と改めた。三代は南蛮渡来の砂張(さはり)の制作に成功した。中興の祖・七代は「砂張打物の名人」といわれる。