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(1)出家して 瀬戸内寂聴さん

大切な人が向こうで生きている
先月、岩手県宮古市など被災地を訪ねた。「未曽有の災害時に私は生きていたのだから、作家として見ておかないといけない」。被災者の手を握り、背中をさすった(京都市右京区・寂庵)

 私は一度、死んでいるつもりなんです。51歳で出家しましたから。出家とは、この世を捨てて、生きながら死ぬということ。戸惑いはありませんでした。そのまま現世にいたら、自殺するかもしれないと思った。

<瀬戸内さんの死生観に大きく影響を与えているのは出家だ。1973年に得度し、作家「瀬戸内晴美」から「瀬戸内寂聴」へ。74年のエッセー「世外」で得度前のことを記している。「この数年来、休む間もなく独楽(こま)のようにきりきり自転しながら、砂漠で水を需(もと)めるような渇きで、永(なが)い漂泊の旅への憧れにそそのかされていた。そのひまひまには、それよりももっと激しい誘惑で死が招きはじめていた」>
 全部が手に入る状態で、非常にむなしかったのです。仕事はいくらでもあり、何も困ったことはない。小説は書き方のコツを覚えていたからいくらでも書けてしまう。でもこのようなものを書いていてはいけないと思った。生きていたら、小説は書き続けなければならない。そのためにも自分は変わらなければならなかったのです。

<出家後は多忙を極めた。比叡山横川で60日にも及ぶ厳しい行「四度加行(しどけぎょう)」を行い、新聞小説を連載。嵯峨に寂庵を結んだ。53歳の冬、編集者に頼まれて、お経をあげている最中に異変が起こった>
 後頭部に鉄棒で殴られたような痛みが走りました。「観音様が頭を殴るなんて」と思いながら、どうにか最後まで唱えた途端、気を失いました。くも膜下出血でした。出家前から「死ぬこと」は、ちっとも怖くないんです。でもこの時ばかりは「出家後に死ぬなんてみっともない。これは死ねない」と思いました。

<回復した瀬戸内さんは以後35年間、精力的に活動する。多くの小説を書き、源氏物語の現代語訳も手がけた。湾岸戦争の犠牲者を救援するためイラクを訪問するなど国内外を飛び回った。「なぜそんなに元気?」と聞かれると、ユーモアを交えて「元気という病気なのよ」と答えるほどだったが、疲労は少しずつ積み重なり、昨秋に腰椎を圧迫骨折。一時は寝たきりになった>
 私は自分の年をすぐに忘れてしまうの。でも今回、いつ死んでも不思議ではないと自覚しました。88歳でけがをしたら多くは寝たきりになる。長生きはほどほどにして死にたいとも思いました。遺言書に関する本を3冊読んで遺言書を書き、スタッフに形見分けもしました。お墓も(かねて住職を務めた岩手県二戸市の)天台寺に買ってあるの。大きさ、形、値段もみんなと同じで「寂聴と一緒に眠りましょう」って。骨つぼへは納めず、そのまま埋葬するので、土に返ります。

 今度ぐらいスタッフに感謝したことはありません。介護をしてもらうために雇ったのではないのに、顔をふいてくれたり、簡易トイレの掃除をしてくれました。私は人の世話にならないように生きてきたけれど、やはり世話になるのですね。ありがたいです。

<出家前、あの世も魂の存在も考えていなかった。だが今は、いずれも信じている>
 死について小説家の稲垣足穂と話をしていた時、日本間の襖(ふすま)をさして足穂がこう言いました。「襖を開けたら次の部屋があるだろう。あの世とはそういうもの。死の襖を開けたら、生きている世界と同じものがある」と。

 私はたくさんの愛する人を亡くしました。父、母、姉の死もみとっていません。「愛別離苦」の言葉通り、とてもつらい。でも大切な人たちが二酸化炭素と水になったとは思えず、向こうで生きている気がするの。そう信じていることが、出家して一番ありがたいことなのです。

せとうち・じゃくちょう

 1922年徳島市生まれ。東京女子大卒。2001年「場所」で野間文芸賞。06年文化勲章を受章。
 人は齢(よわい)を重ねていくなかで「死」とどう向き合うのだろうか。覚悟、未練、思慕…。連載「弔い模様」第3部は、作家や学識者に自身の死生観を語ってもらい、わたしたちが生と死を見つめるヒントにしたい。

【2011年7月1日掲載】