京都新聞TOP > 文化・文芸・教育アーカイブ >弔い模様
インデックス

(5)妻をみとって 永田和宏さん

残したものを形に。つながる時間
河野さんの最期を家でともに過ごし、悔やむことはない。でも「彼女のうなじが好きだった。もっときれいだと言ってやればよかった。がんと聞かされたショックも、もっと表してやればよかったなあ」と永田さん(京都市左京区の自宅)

 僕自身こんな元気なはずがないと思うことがある。身近な人が亡くなると、1カ月何も食べられない人もいると聞く。われわれ夫婦は強いつながりがあった。だからもっと落ち込むかと。河野もそれを一番心配していた。

<歌人の永田和宏さんは昨年8月12日、同じく歌人の妻河野裕子さんをみとった。乳がんだった。生前、妻が亡くなることがとても不安だったいう>
 最初に号泣したのは、昨年2月だったかなあ。よろっていたものをすべて捨て、同じ立場になったことが彼女にはうれしかったようだ。平静を装っていたことが、彼女を一番悲しませていたと、後になってわかった。

 「歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る」。当時、僕はこんな歌を詠んだ。彼女はあまりにもいろんな歌を残している。それに耐えられないと思っていた。

 でも、河野の歌一つ一つを読んだり、残したものをみると、その時が僕は一番安定している。息づかいが聞こえる。歌の力をこれほど感じたことはない。

<今年5月以降、自身のエッセー集「もうすぐ夏至だ」、河野さんの遺歌集「蟬声(せんせい)」、相聞歌集「たとへば君」を相次いで出版した>
 歌を読むと、河野がそこにいる。「蟬声」を編むときは、息子の淳と娘の紅と3人で手帳の字をああでもない、こうでもない、と。あの時間が貴重だった。楽しかった。子どもたちと二晩三晩集い、必死で読もうとする。河野の残したものを皆に知らせたいと。彼女から与えてもらった、ありがたい時間だった。

<亡くなって間もなく1年。だが、お墓はない。写真の前に立ち、線香を日に1、2回あげるが、手を合わせたことはない>
 家族で一周忌はやめようと話している。河野自身、墓も葬式もいらないと言っていた。だから家族葬で滋賀県の実家の寺に来てもらった。納骨もせず、(家族同然の)猫2匹の遺骨とともにある。

 僕は古い形式やしきたりをすべて壊すべきだとは思っていない。ただ、向こう側におしやりたくない。「女々(めめ)しいか それでもいいが石の下に君を閉ぢこめるなんてできない」という歌も作った。何となくつながっている、あいまいな所に置いておきたい。

 納棺を見せるのも、見られるのも嫌。死んだときの顔は生きていたときの記憶と全然違う。送る側として、本当に悲しんでくれる人だけで囲みたかった。葬式となると、行かなければという気持ちが働く人もいる。自分と死者との関係に、そういうものが割り込むのが耐え難い。

 ただ(主宰する)「塔」には千人の会員がいる。ここに来たら河野に会えるという場所を作ってあげないと、申し訳ないとも思う。

<河野さんは、永田さんの挽歌(ばんか)を作るのは自分だと常々言っていた>
 約束が違うやないか。でも僕が先に死んでいたら、彼女はおかしくなっていたと思う。

 死んだ人は覚えていてやらないと死んでしまう。「わたくしは死んではいけないわたくしが死ぬときあなたがほんたうに死ぬ」。彼女は僕が生きている限り生き続ける。子どもたちともしゃべれるし、歌を作っている人とも歌を介して話せる。

 よく時間が癒やしてくれるというが、それは自分にあきらめを強いること。僕は忘れたくないし、癒やされたくもない。時間の中に記憶が薄れていくのがむしろ怖い。

<「科学者なのに、ゆで卵一つできないの」。河野さんは永田さんの日常をよく笑い話にした。しかし今、永田さんは自炊を欠かさない>
 どこかで自分を律していないと、崩れてしまうのが目に見えている。外食しないのもその一つ。今はその辺が自分の支えだ。死に急ごうとは思わない。

 彼女の残したものを形にする作業をすることで、向こうに行ってない人という感じがしているが、こういう作業がなくなったときが不安。独りぼっちで生きていくということがどういうことか分かっていないから。

ながた・かずひろ

 1947年滋賀県生まれ。京都大教授を経て、現在京都産業大教授(総合生命科学部長)。大学在学中に本格的に短歌を始め、故河野裕子さんとも出会った。短歌結社「塔」主宰。

【2011年7月29日掲載】