京都新聞TOP > 文化・文芸・教育アーカイブ >猫文字日記
インデックス

(1)QUICK サンドイッチ

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 京都に引越の下見に来て初めて入った家に住むことになった。鴨川に近い古い町家で、戸をくぐった瞬間、大きな女性のあたたかい手で背中まで包まれた感覚がした。そういえば僕はお祖母(ばあ)ちゃん子で生家にいるころ大概ずっと祖母の近くにいてからかったり怒られたり笑ったりし、祖母の名前は園子といったが、二〇〇四年に僕の結婚した相手の名前も園子だった。母は実家の台所で包丁をタンタン鳴らしながらアタシは石井園子さんにはさまれたサンドイッチの具やな、といった。京都にはこの二代目園子さんとふたりで住む。

 一応小説を書いて暮らしてい、そして自分の最も愛読してきた小説家ということもあるし、ミーハー的関心も含め、引越が落ち着いてすぐ法然院の谷崎潤一郎の墓に参ることにした。よく晴れた日だった。法然院へのぼっていき寺務所にかかった板を木槌(きづち)でとんとん叩(たた)いて仏花を求めた。谷崎潤一郎と松子夫人の墓はしだれ桜の下の光がこんもり集まった空気に包まれたような土地にあり、花が地味すぎと思ったし、今度は形だけでも御馳走(ごちそう)をお供えしますと胸のうちで念じ、隣の園子さんと一緒にしゃがんで掌(てのひら)を合わせた。園子さんがぐっしゃんぐっしゃん嚔(くしゃみ)を発しはじめた。重度の花粉症なのである。だんだん歩いて帰れないほどになってきバスに乗って鴨川のそばのバス停まで帰った。薄暗い八畳の居間で四肢をぐったり伸ばして休んでいる。

 英語の古本を五冊抱え、近所の若者っぽい洋書屋へ売りにいった。店員の査定によれば五冊で二八〇円で、店の本を買うなら三八〇円分まけるという。棚を全部見て選んでいたら時間がかかるし、「新入荷」の箱から一冊、と墓でやったようにしゃがんだら、いちばん手前に「QUICKSAND」という題のペーパーバックがある。何心なく手にとり裏の解説を見てア、と思った。迷わずに買い、家まで駆け、居間で起きていた園子さんの前に差しだした。怪訝(けげん)そうな顔をしていたが裏の解説を指さすとア、という顔つきになる。主人公がSONOKO、著者はTANIZAKI、つまりQUICKSANDとは英訳された「卍」だった。あるベテラン編集者に話すと、それは谷崎先生が園子さんを気に入ったのかもしれないわね、といって笑った。

 三浦半島と長野・松本に居を構えていた、いしいしんじさんが今年二月、京都の町家に移り住みました。二十年ぶりの京都暮らしを月に二度つづります。

いしいしんじさんプロフィール

1966年大阪市生まれ。作家。京都大文学部卒。著書に「ぶらんこ乗り」「麦踏みクーツェ」(坪田譲治文学賞受賞)「四とそれ以上の国」など。

【2009年4月6日掲載】