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(3)うちのごりょうさん

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 人間が自分のからだを離れて別のからだに入り込んでそれを使うというとき、それまでになかったねじれや、でっぱり、そうと思わずにしてしまう動作、癖のようなものが、しばらくのうちは気になってぎくしゃくするだろう。

 家を替わるというのも似たようなことで、それまでは真っ暗闇、目をつむって階段を上り下り台所で元栓を閉め家をぐるっと一周することができたものが、新しく越した家になると昼の日中でもなにもないところでつるつるの廊下でふわりと前のめりにくずおれたりする。暗闇でいっそうわかることだが、長く住んだ家の屋内はもうその人のからだとつながっている、あるいはそのからだが家の内側の形とひたっと重なり合っているので、その家のなかで暮らすということがその人のからだを生きるということとただしく同意義になり、その相性がよほどなら、その家を離れても、その人のからだは目には見えないがほんとうはその家のかたちそのままとして生きているかもしれない。

 新しい家に住みはじめて三ヶ月経(た)ち、新しいといっても築百年という話もあり、しかしこの家は齢(よわい)百というより若さを保ったまま、ただその時間を過ごしてきたある女性の感じが薄い霧のようにたちこめている。僕は割と気に入られているらしく、ちょっとした出先から帰って家に入るとふわっとしたものに包まれ少し体温があがるように思うときがあるけれど、園子さんは「あたし、お嫁さんだから」というように、家が見えない手を後ろで叩(たた)きながら「はよ、はよ!」とか、「ここ屑(くず)落ちてるえ!」とせきたてられる気がすると苦笑するが、それも意地悪というよりか、くるくるとよく働くのを見て親しみをこめた笑みを浮かべ見つめているといった、そのような余裕で家が我々ふたりを大きくくるんでいる。昨日こういうことがあった。うちは階段がずいぶん急で、前に住んでいた家族の誰かが足を滑らしたらしく、降りきったところ正面のガラス窓がひび割れ、そこをセロハンテープで蜘蛛(くも)の巣のように補修してあった。僕は所用ででかけ、その間園子さんはくるくると働き、家のあちこちのガラス戸を外して庭で洗い、べんがら格子の内側の板の間にしっかりとたてかけておいた。勝手に倒れるはずがないのである。

 が、台所で園子さんが書類を見ていると物音がして、慌てていってみるとガラス戸が家の内側にすべて倒れ、そしてそこにはまっていたガラスが一枚だけ、狙いすましたように割れていたという。園子さんはすぐに近所のガラス屋に相談にいったが、階段の下のガラスのことも思いだし、ガラス屋にそこも見せたらアーわかりましたと、一流のメイクさんのように見る間にきれいにしてくれた。園子さんは「うちのごりょうさん(そう呼ぶ)が階段のところ呆(あき)れてはったんやわ」と恐れいっている。僕はこの家がきれいになるのは自分らがそこに立ち会える幸運ということも含め好きである。

(作家)

【2009年5月18日掲載】