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(7)大切なYOU

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 直島は現代美術と風土とそこに住む人たちが相まって、瀬戸内でも年間30万人が訪れる名物の島だ。僕は親戚(しんせき)やさまざまなことの縁が重なり、年に1度は出かけていくが、昨日まで銭湯の「初風呂」にいっていた。「直島銭湯I☆湯(アイラブユ)」。作ったのは画家の大竹伸朗と職人たちである。昨年宇和島の大竹邸を訪ねたとき、コレだよと見せられた模型を見て目を瞠(みは)った。こんなものこの世に本当にできるのか。しかし完成した「直島銭湯I☆湯」はそんな驚きを軽々と越え、僕は目の前で宇宙が笑い、あいた隙間(すきま)からパラダイス銀河が噴き出しているのがわかり、アア、こないだの皆既日食は全国的にしょぼかったが、あれはあの瞬間、宇宙のパワーがこの場所に集中していたせいかもしれんと思った。宮浦港の集落の中に「I☆湯」はあり、完成初日、地元の人らのための内覧会に、小学生から老人から次から次と集まってき、まだお湯を入れていないので男湯も女湯もすべての内装を見ることができる。まずは地元の人たちに公開し、喜んでもらおうという考えだ。

 外観は、世界でもっとも謎を呼ぶ伝説の宝が収められた秘宝館といおうか。鉄筋コンクリート建ての平屋で正面にはシュロ、屋上に松が2本、ひょろりと伸びた赤いネオン管のひらがな「ゆ」は、接岸する船上からもよく見える。外壁には船体、スクリューや網、おびただしいテラコッタ、そして絵付けのタイルや写真が貼(は)られ、色と形がたえまなく炸(さく)裂していて、それでいて暴力でなく、慈愛、いつくしみの念が湯気のように周囲にたちこめている。地元のおじさんおばさんが、胸に「I☆湯」(☆は金色)がプリントされたTシャツを着て、忙しく、かつ嬉(うれ)しそうに、マスコミや訪問客の応対をしている。銭湯の前に住む80のおばあさんは「大竹先生はエライ!あの方だけや、工事うるそうてスンマセン、ゆうて挨拶(あいさつ)においでたん。さすが先生じゃあ!」といって、以前大竹に贈られた絵とサイン付きのひょうたんを持ってきてくれた。Tシャツも手ぬぐいもシャンプーリンスセットも大竹デザインで団扇(うちわ)もある。

 一番風呂は、毎日工事現場を見に来ては完成を楽しみにしていた、裏の家の100歳になるおばあさんで、孫の遊び場を訪ねるような笑みを浮かべ、ご家族とふわりとのれんをくぐって女湯に消えていった。そして15分ほど経ち、のれんの向こうから桃色の笑みを浮かべてあらわれたのは、10代半ばくらいの、直島で生まれ育った少女だった。一瞬だけれどもたしかにその浴衣姿が僕の目には見え、いま、直島が一番湯に入り、そして出てきたのだ、と思った。記憶の湯で洗われた100歳の少女がゆっくりと歩いていく。皆こころで「I☆湯」「I☆湯」と唱和している。

 それから3日つづけて湯に入った。京都にまだ銭湯が多く残るのは、記憶を大切に扱う街ならではの「皮膚感覚」かもしれんと、波打つ湯に身を浸しながら思った。

(作家)
※ ☆は「ハートマーク」です

【2009年8月3日掲載】