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(8)瓜生山の上で

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 学生時代北白川の上終町に住んでいた。スーパーナカムラの上の3階である。向かいの赤煉瓦(れんが)の建物は京都芸術短期大学、背後の山は瓜生山、藪(やぶ)を縫って細い山道をのぼっていき頂上当たりでふり返ると一ノ谷の逆落としかと見まがうような急斜面で、岩に尻を置き左京区の屋根を見渡しながら、何本ももってきた缶ビールを飲み下したものだった。山裾(すそ)あたりは住宅地で、家庭教師をやったことがある。受験を控えた、体格がとてもいい、イヤ、よすぎるやろ、というくらいの胴回りの中3男子で、英語を見てほしいというのでまず最初に、I came from California という例文を訳すようにいってみると、ウウーン、ウウーン、と胃痛をこらえているように腹を押さえてうなり、パッとこちらを見あげ、チョットいまワスレタ、という。ぼくはカリフォルニアから来ましたやろ、というと、アアー、そやったそやった、と頷(うなず)いて書きはじめハタと止まり、ウウーン、とまたうなりだすので、どうしたのやろと見ていると、先生、カリフォルニアのフォて、どう書くんでしたっけ、といった。その家ももういまはない。

 上終町の信号で降りてふり返ったら、いままさにスーパーナカムラの建物が重機で取り壊されている瞬間だった。自分が4年過ごした空間が虚空に消失するというのは、夢が覚めたら周囲が焼け野原だったというような心地がする。そして瓜生山はパルテノン神殿がSFになったような巨大な階段に覆われ、今風の若い男女が談笑したり腕を組みながら上り下りしている。足をかけて上ってみると、上っているのに逆落としの崖のような前のめりの感覚にとらわれ、アアこの傾斜はやっぱし瓜生山やと思った。クリエイティブライティングという講座で、教室に集まった200人ほどの人の前で、机を横にむけてマイクで読みながらその場で小説を書く。主人公は、その講座を受け持つ准教授の新元良一さんで、ニューヨークに住む20代の新元さんは、世界一のストーリーコレクターがボストン郊外に住んでいると聞いてバスに乗り訪ねる、そこはアンティークのボタン屋で、どうしてここがと新元さんは不思議がるが、そのうちそこにある何万というボタンに紙が1枚ずつ添えられているのに気づく、何世紀頃どこで、誰の着ていたどんな服についていたボタンか、それがどうしてここへ来たか、来歴がぎっしり書かれてあり、そこで新元さんはあるひとつのボタンを見つけだし…というような話になった。スーパーナカムラの上で夜通し読んでいたのもそんな小説が多かった。

 同じ造形大内にあるギャラリー・オーブで8月いっぱい開かれている展覧会は、京都の人はいかないと本当にもったいない。入場は無料だ。塔本シスコと丸木スマの絵は、絵画を見なれた人もそうでない人も、この世で初めて絵を見るとはこういうことなのか、という気持ちにさせてくれる絵だ。瓜生山の空間に海景が広がり波が光りうねるのが見える。

(作家)

【2009年8月17日掲載】