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(13)ガケ書房の謎

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 白川通りにガケ書房という店がある。通りに面してそそりたつ岩のガケから、ミニクーパーの前半分が飛びだしているからといってそこは駐車場じゃない、装飾である。店長の山下賢二さんは京都で知り合った人のなかでもとりわけきれいな顔をした、おっさんの僕がそばに近づいてもなんだかドキドキしてしまうような人だが、なんで本屋さんをやるのに、わざわざガケなのか、あらためて尋ねることがなかなかできないでいた。

 東京から知人の湯浅学さん率いるロックバンド「湯浅湾」が全国ツアーの一環で京都へ来た。ライブハウス出演の前夜、ガケ書房でもライブをやるというので一緒に出演することになった。僕は楽器を鳴らすと味噌(みそ)汁が腐ってしまうだけなので、前にも書いた通り、ふだんやっていること、つまり小説を書くというのを、湯浅湾ライブのあと大勢の前でライブでやる。いつもやってみるまでどんな話になるかわからないが、書いてみて、ア、ガケ書房はそういうわけでガケなのか、という話になった。11月の初めにものすごく寒い日があったがまさにあの日の夜である。

 ガケ書房は外見はガケなのに中に入ると当然ながら本屋で、人造のガケの内側にガラスの外壁が張ってある。そのガラスとガケの間に入り、店内にいる聴衆からは逆さの文字になるが、マイクを握り、植え込みの枝に頭や背をかきむしられながら小説を書いていく。「山下賢二は」と僕は書きはじめた。いつもその場の中心人物が主人公になる。「ロックバンドをやっていたが、不動産業を営む友人に、ええ物件あるで、といわれた」。30万円で土地付き一戸建て、という破格値で、ライブハウスの給料が出たばかりの山下は即断し買うことになった。いってみると、土地は土地でも切り立ったガケの真下で、夜寝ていると屋根に小石やら死骸(しがい)やらいろんなものがコツンコツン降ってくる。そのうち、ドサ、ドサ、と違う音が響き、翌朝家の周囲には何冊も本が落ちている。何の気なしにページをめくる日がつづくが、あるとき、ふだん以上に重いドスン!という音を響かせてなにかが屋根に落ち、慌てて登ってみると全裸のショートカットの女性である。山下は女性に服をかぶせて家に抱いて帰る。女性は絶世の美女ではないが山下は目を離すことができず女性は「山下くん」といって笑う。女性は「千葉ちゃん」という名前である。山下と千葉ちゃんはねんごろな仲になり、同衾(どうきん)しているとき山下は自分のなかに言葉やイメージが満ち潮のように溢(あふ)れてくるのを感じる。千葉ちゃんは「わたし本やで、いうてへんかったっけ」と笑う。そうしてやがて読み終えたとき、千葉ちゃんは本として閉じられ、山下の前から消えてしまうが、なおも1冊また1冊と、本が降ってくるガケを見あげて山下は、ここで本屋を開くのもええかもな、と思った。これがガケ書房の真相だが、どうしてミニクーパーか、という謎は依然深い霧のなかだ。(作家)

【2009年11月16日掲載】