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(14)返品きかないよ?

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 1994年に初めての本が出てから、サイン本には必ず1冊ずつ違う絵をつけるようにしている。筆ペンかサインペンのひと筆描きで、動物に食器、花、家財道具、野菜、乗り物や、ただの模様、というときもある。非常に喜ばれる場合もあるが、微妙な表情で立ち去っていく人もいる。本は製本工場で作られる大量生産品だけれど、1冊ずつ違う絵を加えれば、持っているその人だけの1冊に、物としてはなる。こちらのほうが持ってくれている人もその本も幸福な感じがする。

 ただし東京、浅草の本屋でしくじったことがある。通りかかったら店頭に出たばかりの本が置いてあり、僕は顔見知りの主人に「これ俺(おれ)が書いたんです。絵、つけましょう」。主人はこちらを向いて妙な顔をしている。「さ、書きましょう。場所柄、カエルがええかなあ、カエル、カエル」といいながら、見返しページに柳へ飛び付くカエルを描いたら、主人は「ア、ア」とアオガエルみたいな声をあげ、ものすごい勢いで駆け寄って来、「しょうがねえなあ!」と絵柄を見おろしていった。「困るんだよ、本汚されちゃあ。これ返品きかないよ? 買い取ってもらうからよ」「すんません」。僕はうなだれて千円で自分の出たばかりのカエル付きの本を買った。

 同じ頃、たしか1996年の暮れ、京都河原町のいまはなき駸々堂書店にサイン本を作りに来た。「カエル」の時のようなゲリラでなく出版社から先方へ話は通っている。営業あがりっぽい店長さんが通してくれた会議室には、新刊が100冊積んであり、僕は甚だしく感激した。ふつうサイン本を作りにいったら10冊か多くて20冊である(いま思えばきっと注文をひと桁(けた)間違えたのだ)。「ちょっと時間かかりますから」と僕は店長さんにいった。「ほったらかしにしといてもらって結構ですし、どうぞ仕事に戻ってください」。このときどういうわけかアクリル絵の具のチューブ十数本、筆を3本持っていた。僕は1冊ずつ表紙を開き、見開き部分にアクリル画を描いていった。鴨川沿いの風景、動物園のゾウ、舞妓さん、源頼光、葛の葉狐、等々。100冊描き終え、掛け時計を見たら6時間が過ぎていた。レジで店じまいをしていた店長さんが「まだいたんですか。いつの間にか帰ったかと思った」と驚き、会議室に戻って、ずらりと広げられた本を見てまた驚いた。店長さんは、店に残っていた何人かを集めると、夜中までかけて、書店の店先にプラスティックの巨大な棚を誂(あつら)えた。そして翌朝からそこにサイン本100冊、絵のページを広げて、すべて並べてくれた。後日電話したら「全部売れましたよ」と笑っていたが、店長さんや店員さんらも買ってくれたのだと思う。

 絵を描くとは、流れ去るその時間、その場所を、線で囲んでかけがえのないものにすることでもある。サイン本という名目で絵を描くのは、相手のためだけではない、実は自分のためにも描いているのである。 (作家)

【2009年12月7日掲載】