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(15)光の贈り物

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 ゆうべ九条のみなみ会館で森繁久弥追悼上映「桂春団治」を見てきた。1956年、昭和31年の東宝作品だ。極悪非道の芸人役の森繁は当然すばらしいが、その芸人に惚(ほ)れては非道(ひど)い目に遭う3人の女性役、淡路千景、高峰三枝子、八千草薫の姿がとにかく美しかった。スクリーン上で誰かがアップになるたび館内の闇のあちこちで「ハッ」「ハッ」と息をのむ音がかすかに響く。映画の楽しみのひとつは女性の美しい顔を自分のからだよりも大きなサイズで眺められることだ。

 どれだけ混んでいるかと急(せ)ききって出かけたが、席にはまばらどころかほんの4、5人が座っているだけで、これはひょっとして案外知られていないのかもしれないが、みなみ会館は会員にさえなればこの日のような特集上映が8百円で見られる。ロードショー作品でも、夫婦のどちらかが50歳以上ならばふたりで2千円、高校生3人以上ならひとり千円。この12月だけでも「バグダッド・カフェ」「地下鉄のザジ」など知られた作品、「アンヴィル」「ディア・ドクター」らの新作と、選ぶのに困るほど贅沢(ぜいたく)なプログラムだ。みなみ会館のような映画館は、以前は京阪神にいくつもあったが、いまはもう、ふたつ、三つと数えるほどしかない。あると思っているうち不意になくなってしまい、ああ、しまった、と振り返っても遅いのである。

 僕のなかでも、京一会館がなくなった、と知ったときの鈍く重いショックが、いまも残響のようにからだの底で鳴り続けている。学生の時、居酒屋で隣のふたりが「先週なくなったらしいで、京一」というのをきいて僕は空気をのみ、しまった、と思った。俺(おれ)は手を抜いていた、と思った。自分のような人間がひとりでも、あと一度ずつ見に行ったらば、京一会館はまだこの世にあったかもしれないのに。しかしもう遅い。一乗寺のごちゃごちゃっとした商店街のなかの、空気が停(と)まった階段を上っていく。ドアをあけ、席に座ればロマンポルノでも「気狂いピエロ」でも、そこに座って見はじめれば「京一会館」の映画になった。というより、「京一会館」が映画そのものになった。館内の空気に、フィルム越しの極彩色の光がしみ通り、席に座った僕たちのからだは文字通り映画にちょうどよくくるまれ、だからだろうかどの映画館よりも眠っている人が多かった。映画はただ目で見る娯楽でなく、全身で浸ることのできる、他では流れない、ある特別な時間のことなのだ。

 もうすぐクリスマスだが、みなみ会館では23日から25日までアニメーション作品「こまねこのクリスマス」を上映する。23日は午後6時20分、24、25日は午後8時25分から、入場料は誰でも8百円。僕も何もわからない頃(ころ)クリスマスに映画に連れて行ってもらったことがあったがその時間の特別さはいまも財産として残っている。テレビやビデオでない、全身が映画の光でくるまれる記憶を、幼いうちに持つことは、おそらくどんな高級な品物より幸福なプレゼントになると思う。(作家)

【2009年12月21日掲載】