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(16)音の箱

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 今日もアメリカから段ボール箱が届く。中身はすべてレコード、しかも1950年代まで生産されていた78回転の、いわゆるSP盤だ。オークションに出ているレコードをインターネットで落札し、ということはこの春までもやっていたが、それまではビニールの45回転か33回転、つまり普通のシングル盤かアルバムばかりで、それがこの夏中古の蓄音機を手に入れてから、うちに届くのはほぼすべてSPレコードになった。SP盤はビニールでなく、カイガラムシの唾液(だえき)に含まれるシェラックを固めたもので、天然素材などでかびやすく、ガラスより割れやすい。

 SP盤を買うのはレトロ趣味なんかでなくただ音がいいからだ。というより、もはや別物。蓄音機で聴くSP盤は、過去に録音された音楽を、現在の時間に直結して聴く最高の方法なのだと今更ながら知った。蓄音機はノスタルジアの大人の玩具などでは全然なく、半世紀以上前に死んだ演奏者を目の前に呼び戻す、タイムマシーンだったのである。

 たとえばエルヴィス・プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」を聴いてみる。うちの座敷でその声を浴びた女性は皆一様に「ウワッ」とのけぞって手をつく。声の艶(つや)、かすれやにじみ、あたたかみ。きらきらと滴(しずく)を飛ばして輝く驟雨(しゅうう)のようなエルヴィスの声が、女性の身体をくるみ、湿らせ、別世界でだきしめる。ある女性は「これは禁止されますよねえ」と上気した顔で呟(つぶや)いた。マディ・ウォーターズというブルースマンがいる。ローリング・ストーンズは彼の曲からバンド名をつけたのだがこの黒人の戦後すぐの録音もすごい。ウッドベースをバックにギター一本で歌うそのスライドギターが、冗談でなく木造の2階建て全体を揺らせる。音量ということでなくて音がリアルなのだ。表の通りをゆく人は間違いなく中で黒人が実際に弾いていると思っている。チャーリー・パーカーのサックス、ムーングロウズのコーラスも同じで、蓄音機の上にミニチュアの生身の演奏家がホログラムのように現れ、ほんまにそこで楽器を鳴らし歌っているようにしか聞こえない。東山通りのレコード屋「太陽」のご主人が「SPは電気入れて聴いても聞こえまへんで」といっていた。その通り、蓄音機は手巻きのゼンマイで盤面を駆動させ、鉄の針で太い溝に刻まれた音を拾う。比喩(ひゆ)でもなんでもなく「天然」「自然」の音で、だから吹きこまれたときと同じ振動が、レコードを通し、いまこの場所の空気に伝わって、子どもを踊らせ、女性を上気させ、通行人の足を止めさせる。

 木造の空間だからこそ、の感じもある。蓄音機はバイオリンやチェロと同じマツやトウヒ材で作られていて、鳴らすと家じゅうの木がそこらでブーンブーンと共鳴をはじめる。京都という土地も、この音楽にはうってつけだろう。町全体が巨大な蓄音機に似ている。幾筋もの時間の溝を、人間それぞれの針が辿(たど)り、豊かな重なり合いの音楽が鳴り響く。(作家)

【2010年1月4日掲載】