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(17)かるたの星

京都猫文字日記
いしいしんじのノートより

 競技かるたがすごいらしいとは人の噂(うわさ)で知っていた。しかし実際目の当たりにするやそんな聞いた噂など「むすめふさほせ」の札のように一瞬で畳の外へ吹っ飛ばされた。昨年末とあるヒミツの集まりで、競技かるたをやっている若い女性を紹介され、僕の年下の文通相手の知り合いということもあって、いろいろ話すうちに、では正月に近江神宮に観戦へ、という話になった。競技かるたの日本一を決める名人位・クイーン位決定戦が行われる。晴天の土曜日、電車を乗り継いで何のルールも知らないのに出かけていった。ワニばかり食べているオージーの牧童が葵祭の行列に迷い込むようなものである。

 会場についたときはクイーン戦の真っ最中だった。大会5連覇中の20歳の永世クイーンと、全国から勝ち上がった27歳の挑戦者が対戦している。畳敷きの競技場にはあらかじめ整理券を取った上、開始前に入場していなくてはならず、モニターつきの見学室にはいったら、ぎっしり立ち見の人がいて驚いた。テレビのアナウンサーと解説者が試合を見ながらルールや状況など話していて、ワニ牧童としてはたいへんありがたい。ただ、目の前で展開している試合の緊迫感は、知識のありなしなど関係なくわかる。ふたりのあいだに紙を落とせば、その瞬間、空中でまっぷたつに切れてしまうにちがいない。

 自陣と敵陣とに25枚ずつ、百人一首の下の句の札がある。読み手の口から、上の句の最初の子音、あるいは母音が、発せられたかどうか、その瞬間にもう札は飛んでいく。自陣で取れば1枚減り、敵陣で取れば自陣から1枚渡し、そのようにして先に自陣の札を無くしたほうが勝ちだ。クイーンと挑戦者は腰を浮かせ、猟犬並に耳をたてて、右手をゆっくりと畳の上で旋回させる。毎回必ず取れるわけでなく、「から札」といって、その場に出ていない50の歌も読まれるので、絶えず対戦の緊張がつづく。フェンシングや剣道に近いかもしれないが、試合時間はラグビーやサッカー並の90分、それを日に2試合、3試合とつづけるのだから、集中力の持続でいえば、まさしく他(ほか)にこんな競技はない。

 競技者ふたりはいま何を見ているかと考える。札の並び、黒々とした字、そういう普通目に見えるものはもちろん、凍り付いた緊張の先へ先へ、研ぎ澄まされた視覚なら、ふだんそうでないものもたぶん捉(とら)えている。指先の震え、ある札から出るほのかな光。90分という時間が、その視界のなかではゼロ秒の集積だ。最終的に競技者の目にもっとも見えているものは「音」だろう。耳がきいて、という反応でなく、光が閃(ひらめ)いた、と感じた瞬間、全身を札に飛びこませる。競技者の感覚のなかで、音は光の速さで空間を走る。「むすめふさほせ」とは、その1枚以外同じ始まりの音がない札の頭文字だ。いってみれば、かるたの光をいっそうまばゆく放っている、夜の1等星のような7字である。(作家)

【2010年1月18日掲載】