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銭座場跡の碑

再興の地 今に伝え
崇仁コミュニティセンターの一角にある銭座場跡の碑(下京区)
 銭座場とは貨幣の鋳造所のこと。一六九八(元禄一一)年、七条通と高瀬川が交差する現在の崇仁地区に銭座の設置が許可され、寛永通宝の鋳造が始まった。一七〇七(宝永四)年には宝永通宝(大銭)の鋳造が始まり、一七〇九(宝永六)年一月まで続けられた。
 銭座の跡地は二万一千平方メートルと広大だったが、その後、荒れ放題になった。貨幣を鋳造した土地には銅が多く含まれ、農業には適さなかったためだ。
 放置されていた銭座場跡を再興したのは当時、鴨川西岸の五条−六条の地域で皮革業などを営んでいた六条村の人たちだった。当時、六条村は地域産業の発展で人口が急増。新たな宅地開発が求められていた。地元には、一七三一(享保一六)年十一月に六条村年寄の与三兵衛が領主に提出した開発許可の申請書が残っている。
 碑は現在の崇仁コミュニティセンターの一角に立つ。地域史の研究に取り組む山内政夫さんは「身分差別の時代に、人々が銭座場跡をたくましく開発したことを伝えている」と話す。