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(29)舞鶴線支線「中舞鶴線」(舞鶴市)

軍港舞鶴、象徴した路線
鉄道時代の名残を残すれんが造りの「北吸トンネル」(舞鶴市浜)
鉄道時代の名残を残すれんが造りの「北吸トンネル」(舞鶴市浜)

 舞鶴市に軍港の発展とともに敷設され、軍事物資の輸送や市民の往来に活躍した短い路線がある。現在では道路へと姿を変えた線路跡をたどり、往時への思いをはせた。

 廃線は東舞鶴-中舞鶴間の3・4キロ。舞鶴線の支線だが「中舞鶴線」の通称で知られている。起点となる東舞鶴駅は1996年に高架化されており、今では戦前や戦中の様子を知ることができない。

 かつての路線は一度、南西方向へと進みスイッチバックしてから中舞鶴へと向かっていた。当時を想像しながら高架沿いに綾部方向へ歩く。しばしば白い制服を着た海上自衛官とすれ違い、軍港の時代の雰囲気をしのばせる。

 300メートルほど歩くと片側2車線の幅の広い道路に出た。支線はこの付近で舞鶴線と分岐していたようだ。広い道路の歩道を数分歩くと、舞鶴共済病院に行き当たった。

 病院前からの線路跡は自転車・歩行者専用道路として整備されている。専用道路には白いブロックを使ったレール状の模様も。数分歩くとれんが造りの立派なトンネルが見えてきた。支線の遺構として有名な北吸トンネルだ。国の登録有形文化財や日本遺産の一つにもなっている。長さ110メートルの直線で、前方が明るく安心だ。自転車や徒歩の市民と多くすれ違い、線路跡が生活道路として定着している様子がよく分かる。

 トンネルのような大きな遺構があるなら、小さな遺物も残っていてほしい。そう願って道路の端に目をこらす。鉄道省や国鉄が使った「工」のマークの境界くいが残っていた。

鉄道省や国鉄が使っていた「工」の字の境界くい(同市北吸)
鉄道省や国鉄が使っていた「工」の字の境界くい(同市北吸)

 北吸駅跡の公園を過ぎると、右から国道27号線が迫り、舞鶴市役所や観光スポットとして有名な倉庫群「舞鶴赤れんがパーク」が近づいて来た。

 1901年、日本海側の旧海軍の拠点として舞鶴鎮守府が置かれた。日露戦争直後の04年、福知山-東舞鶴の鉄道が完成。同時に支線の一部が貨物専用として開通した。19年、支線は中舞鶴駅まで延伸され旅客営業を開始した。

線路跡付近から見た赤れんがの倉庫群(同市北吸)
線路跡付近から見た赤れんがの倉庫群(同市北吸)

 25年の時刻表を見ると上り14本、下り13本の旅客列車があった。その後、戦中にかけ多くの人や貨物を運んだようだ。しかし戦後になると支線の需要は低下、さらにバスも台頭した。50年代には旅客列車は7往復程度となり、68年の時刻表では5往復に。折しも米ソ「デタント(緊張緩和)」の時代。70年の防衛白書も「日本は経済大国にはなるが軍事大国にはならない」と記していた。支線が再び軍需物資を運ぶ貨物列車でにぎわう見込みはなかった。72年廃止となった。

1972年当時の中舞鶴駅(同市余部下)
1972年当時の中舞鶴駅(同市余部下)

 線路跡の専用道路は自衛隊桟橋や海自舞鶴地方総監部前などを通る。左手に蒸気機関車が置いてある公園に出た。この辺りが中舞鶴駅の跡地だ。

 かつての駅前商店の一つ三浦写真館に入った。現在はたばことバスのチケットを売るのみだという。三浦美也子さん(83)は、「以前はにぎやかでした。ここも商店街でしたが今は年々店が減るばかり」と語る。

 三浦さんの言葉を聞いて少し寂しさを感じた。だが、軍需物資を運ぶ路線が活躍しなくなったのは平和な時代の証しなのだと思った。

赤れんが倉庫の近くを走る蒸気機関車(1971年、同市北吸)
赤れんが倉庫の近くを走る蒸気機関車(1971年、同市北吸)

舞鶴線支線

舞鶴線支線「中舞鶴線」

 線路跡全区間を歩くことができる。国道27号線と並走する区間は、京都交通のバスでたどることも可能。舞鶴赤れんがパーク内の「まいづる智恵蔵」には、支線のジオラマが展示されている。

【2018年07月13日掲載】