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(14)粟津の合戦(大津市)

兼平の忠義しのぶ
住宅や工場の一角にひっそりと立つ今井兼平の墓(大津市晴嵐2丁目)
 JR石山駅の北側の一帯は、旧東海道沿いの松並木で「粟津の晴嵐」といわれた景勝地。今は工場や住宅が立ち並ぶ一角に、その人の墓はある。平安時代末期、京の都から平家を追い出した木曽義仲に仕え、「木曽四天王」の一人ともいわれた今井兼平だ。
 源義経らに追われ、この地で討ち死にする義仲に付き添い、自らも壮絶な死を遂げた兼平の最期は、古くから多くの人々の心に訴え続ける。「平家物語」はこう記す。
 大津へ落ち延びた義仲と打出浜で合流した兼平は、わずかな兵で大勢の敵を相手にするうち、義仲と主従二騎だけになってしまった。
 もはや、これまで。兼平は粟津の松原を指差し「あの中へ入って、静かにご自害を」と勧めた。「討ち死にするなら、お前と一緒だ」と言う義仲を、兼平は「どんなに高名を挙げても、最期に不覚をとれば後世まで傷になります」と諭した。
 義仲は、松原に馬を乗り入れたが、泥田に足をとられ身動きできない。兼平の方を振り向いた時、矢が兜(かぶと)の内側を射抜いた。主人の首が上がるのを見た兼平は観念し、「自害の手本とせよ」と叫び、太刀の先をくわえて馬から真っ逆さまに飛び降り、果てた。
 時代は下って江戸時代始め。膳所藩主の本多俊次は一六六一(寛文元)年、兼平の塚があったとされる場所に墓碑を建立。五年後、次の藩主が旧東海道に近い現在地に移設したという。
 兼平の武勇と忠義を慕って参詣する旅人も多かった。当時の茶店で売っていた「兼平餅」を一九七四年に復活させた近くの和菓子店「亀屋広房」の黄瀬桃子さん(五〇)は「東海道を歩いて旅する他府県のお客さんが、よく買っていかれます」と、今なお根強い兼平人気の一端を語る。
 今年一月、兼平から三十五代目の子孫にあたる今井六郎さん(八六)=長野県岡谷市=ら全国の百三十人でつくる「今井兼平同族会」が、兼平の忠節をたたえる「表忠文」を墓の隣に復刻した。
 六郎さんの妻密子さん(八五)は「古典にも立派に描かれている兼平は『知る人ぞ知る』存在。本多氏ら滋賀の方々がつくってくれたご縁を大切に、今後も地味にお守りしていきたい」と話す。
【メモ】今井兼平の墓は、JR東海道線石山駅、京阪石山駅から北西へ徒歩約7分。さらに琵琶湖岸まで歩くと、なぎさ公園「膳所・晴嵐の道」が整備され、「粟津の晴嵐」をしのばせる。兼平が仕えた木曽義仲をまつる義仲寺には、義仲に思いを寄せていた俳人・松尾芭蕉も眠る。京阪石場駅から東へ徒歩10分。

【2006年11月28日掲載】

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