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(15)伊佐津川の一本松地蔵(舞鶴市)

治水の陰に娘の死
悲話を伝える一本松地蔵。住民に愛され、年中お供えの花が絶えない(舞鶴市七日市)
 舞鶴市と綾部市境にそびえる弥仙山(標高六六四メートル)を源に西舞鶴の市街地を流れ、舞鶴湾へと注ぐ伊佐津川。左岸の土手の上には、多くの住民がジョギングや散歩に利用する遊歩道があり、途中の道路脇に柔らかな笑みをたたえた地蔵が静かにたたずむ。「一本松地蔵」の名で親しまれるこの地蔵には、地元にこんな悲話が伝わる。
 西舞鶴は田辺城の城下町として発展したが、一六世紀末に細川氏が築城した当時は東側から池内川が、北側から真倉川が町の中央部へ向かって流れ、大雨が降ると川がはんらん、城近くまで泥水が広がることが度々あったという。
 そこで、細川氏の後に城主となった京極高知は一七世紀初め、池内川と真倉川を合流させ、町の東部をまっすぐ舞鶴湾へ流れるようにする一大治水事業を計画。庄屋山口長左衛門を作業奉行に命じ、工事に着手した。
 長左衛門には年ごろの娘がいて、毎日、父親の元に弁当を届けにやって来た。ところが、多くの作業人がその美しさに目を奪われてしまい、洪水の来襲も重なるなど、工事は順調にはかどらなかった。そしてある夜「工事の遅れは娘のせいだ」と、藩の役人が娘を刀で切ってしまった。
 後に工事は完了したが、非業の最期を遂げた娘を哀れに思った村人が川沿いに一本の松を植え、地蔵をまつったと言い伝えられている。
 今も地蔵の前には、お供えの新しい花が絶えない。長年世話役を務める安達信一さん(八四)は「いつも知らぬ間に誰かが花を届け、そうじもしてくれている。民話が語り継がれ、郷土を思う文化がはぐくまれているようでうれしい」と話す。
 最初に植えられた松は立派に大きく成長したが、戦後、松くい虫の被害で枯れた。その後、代わりに植えた五葉の松も一昨年の台風23号で倒れてしまった。それでも住民たちは二カ月後、三代目となるクロマツを植樹し、今は一・八メートルほどの高さに成長している。
 毎年四月五日には一本松地蔵の祭典が営まれ、多くの住民が集まって静かに手を合わせる。悲運の娘をしのぶと同時に、街の礎を築いた先人の苦労に思いをはせながら。
【メモ】JR、KTR(北近畿タンゴ鉄道)西舞鶴駅から、池内地区の自主運行バス(日祝運休)で「七日市」下車。東へ約400メートル歩くと九枠橋に着き、遊歩道を北に約400メートル進んだ所にある。今は大小さまざまな約30体の地蔵とともに安置され、横には由来を書いた石碑がある。史実としては、伊佐津川の瀬替えは細川時代に着手されたというのが定説になっている。

【2006年11月29日掲載】

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