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(29)莵道稚郎子伝説(宇治市)

悲劇の皇子 墓二つ
宇治川の堤防から見ると、木々がうっそうと茂り、森のように見える宮内庁管理の墓(宇治市莵道)
 二つの墓がある。宇治市莵道の宇治川河畔と、同市宇治の朝日山山上。宇治の地名の由来ともいわれる皇族、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓だ。
 前者は一八八九(明治二十二)年、当時の宮内省が定め、堀をこしらえ、長さ八十メートルの前方後円墳に仕立てた。茶畑が広がる宇治川右岸にこんもりと巨大な丘陵をつくる。現在は宮内庁の管理。約一キロの距離にある後者は、一メートルほどの墓碑で山上の道脇にひっそりと立つ。こちらは、その百五十年前の江戸時代にできた。
 しかし、両者とも莵道稚郎子の時代とされる四世紀よりはるかに新しい。詳しい背景は不明で、悲劇の皇子の謎を一層深めている。「日本書記」や「古事記」は莵道稚郎子の生涯をこんなふうに記している。
 莵道稚郎子は、応神天皇の子として生まれた。非の打ち所のない賢者で同天皇の寵愛(ちょうあい)を受け、後の仁徳天皇となる大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と大山守命(おおやまもりのみこと)を差し置いて皇太子になった。これが悲劇の始まりだった。
 天皇の死後、大山守命は皇位を得るため、莵道稚郎子を討とうとするが、逆に敗れて命を落とす。三年間の皇位空白期間が生じ、莵道稚郎子は大鷦鷯尊に位を譲るため自ら命を絶ってしまった。のちに大鷦鷯尊が即位し仁徳天皇となった。
 大鷦鷯尊がその死に驚き「莵道の山の上」に莵道稚郎子を葬ったという。その記述が二つの墓をめぐる謎につながる。
 市歴史資料館の荒川史主査は「宇治川畔は山ではないし、朝日山には古墳があるわけではなく、考古学的な痕跡は見つかっていない。なぜそこに墓をつくったのかわからない」と首をかしげる。
 莵道稚郎子に魅せられ、その謎を探る小説「風はささやき地は叫ぶ」を著した、市職員筑紫巧さん(五六)は「ミステリーだからこそ、先人たちも強くひかれ、千五百年以上たった今にまで、伝承が残っているのでは」と推測する。
 戦禍が絶えない動乱の時代にあって、自ら命を絶ち、兄に位を譲ったという美談。筑紫さんは「莵道稚郎子は権力に固執せず、自己規制した、人間としての魅力がある。今の時代だからこそ、もう一度、よみがえってほしい」。
【メモ】宮内庁の莵道稚郎子の墓は宇治市莵道丸山。京阪宇治駅から北西に徒歩5分。線路沿いの道から参道が延びる。朝日山の墓は同市宇治紅斉。琴坂を上がり、興聖寺南東の山道を登り、15分。宇治川のせせらぎや山林の緑など自然に囲まれた場所にたたずんでいる。

【2007年1月19日掲載】

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