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(31)七塚之碑(近江八幡市)

悲劇の7職人弔う
官庁街通りの中央分離帯に立つ「七塚之碑」。年に一度、地元の人たちが法要を営む(近江八幡市桜宮町)
 近江八幡市役所前を東西に通る幅約三十六メートルの道路。通称「官庁街通り」。その西端の桜宮町交差点の中央分離帯に「七塚之碑」と彫られた石碑が立っている。さらに、西約五十メートル離れた場所にも碑が立っている。こちらも「七塚之碑」とある。
 近江八幡市の中心部にあり、車の通行量は多く、ひっそりと目立たない存在。石碑のいわれなどを知る市民も少ない。
 碑にまつわる伝説は、豊臣秀吉のおい、豊臣秀次が八幡山城を築城した天正十三(一五八五)年にまでさかのぼる。
 築城に際し、秀次は腕利きの職人を広く集めた。そのうち七人が、秘密工事に携わることになったという。しかし、城の完成とともに、城の構造や部屋の配置などの秘密を知ってしまった七人の職人は処刑されてしまった。それを哀れに思った地元の住民が土を盛った土墳をつくり葬ったという。
 官庁街通りは、一九六五年に整備された。それまであった土墳は取り壊されたが、工事中に関係者が事故に遭うなど不吉なことが相次いだため、道路の中央分離帯に「七塚之碑」を立てて、手厚く葬ったという。
 しかし、なぜ石碑が二つあるのか。近江八幡市郷土史会がまとめた「はちまん今むかし物語」によると、同市桜宮町の近江八幡税務署付近は小字名で「長塚」と呼ばれ、小さな土墳があった。一方、同市中村町の近江八幡郵便局付近は小字「七塚」で、ここにも小さな土墳があったという。
 石碑を建てるに際に、どちらが職人を葬った塚かわからないため、両方に石碑を建てたという。
 近江八幡市立資料館前館長の江南洋さん(八一)=近江八幡市魚屋町上=によると、道路整備以前、一帯には古墳時代の古墳が七つほどあったという。江南さんは「七人の職人の悲劇の言い伝えと、すでにあった古墳が結びついて、伝説になったのではないか」とみている。
 二つの「七塚之碑」を訪れると、お酒や花などが供えられていた。石碑は今でも地元の人たちによって大切にされており、地元自治会は、毎年九月の「敬老の日」に、近くの寺の住職を招き、それぞれの石碑の前で法要を営んでいる。周囲が開発され、住宅地や商業地に変わっても、先人に対する思いは変わらないようだ。
【メモ】石碑は、近江八幡市桜宮町と中村町の市道黒橋八木線の中央分離帯上にある。JR近江八幡駅から県道を北に約800メートル、徒歩約15分。付近には弥生―古墳時代の出町遺跡や、縄文―室町時代の鷹飼遺跡などがあり、古くから多くの人が居住する土地だったことがわかっている。

【2007年1月24日掲載】

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