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(36)明智左馬之助湖水渡り(大津市)

勇壮な逸話で人気
湖岸沿いに立つ明智左馬之介湖水渡りの石碑(大津市打出浜)
 朝夕に多くの市民が散歩やジョギングに訪れる大津市の湖岸なぎさ公園。そこに並ぶ二つの文化施設、びわ湖ホールと琵琶湖文化館の間の歩道沿いに、「明智左馬之助湖水渡」と刻まれた石碑がひっそりと立っている。止まって眺める人も少ないが、戦国時代の勇壮な逸話が残る場所だ。
 江戸時代初期に書かれた「川角太閤記」によると、明智光秀の娘婿、明智秀満(明智左馬之介)は、織田信長を討った光秀が山崎の合戦で敗れたことを知ると、守っていた安土城から急きょ引き返し、光秀の居城である坂本城を目指した。だが、大津の町(現在の大津市打出浜あたり)まで来た時、秀吉の武将堀秀政が待ち構えていた。
 激しい乱戦で、味方の兵は次々と討たれ、窮地に立たされた秀満は、東の町はずれから勢いよく湖に馬を乗り入れた。堀秀政は「今に沈むか」と見ていたが、秀満が鞍(くら)の後ろに乗りながらなんとか浜へ上がると、「見物しているどころではない。もらすな」と急いで追いかけたという。
 秀満が上陸した場所には諸説あるが、その一つが大津市柳が崎だ。湖水渡りの石碑から直線でも約二キロもある。武具を身に着けた人間を乗せた馬が、そんな長距離を本当に泳げるのか疑問だが、江戸時代後期になると、秀満の湖水渡りは講談として語られ、浮世絵や歌舞伎の題材にもなるなど、人々の人気を集めた。
 大津市歴史博物館の中森洋文化財保護課長は「宇治川の戦いでもあるように、ある程度の距離を馬で泳ぐことは、当時の合戦ではよく行われたのでは。馬で琵琶湖を渡って大軍を突破するスペクタクルが好まれたのだろう」と推測する。
 上陸した秀満は、見事湖を渡りきった愛馬を「いくら名馬とはいえ安土から乗ってきたから、また乗れば倒れるだろう」と休ませた。それにちなんで、びわ湖大津館の駐車場には、地元の錦織青年会が立てた「明智左馬之介駒止松」と彫られた石碑もある。
 結局、無事坂本城に入場するものの敵に囲まれた秀満は、光秀の妻子らを手にかけた後、自害した。命がけで琵琶湖を渡りながら、秀満は死を覚悟していたのだろうか。石碑から遠く唐崎方面を眺めながら、そんな思いに駆られた。
【メモ】明智左馬之介湖水渡の石碑へは、京阪石山坂本線石場駅から徒歩7分、JR大津駅から徒歩15分。大津市歴史博物館には、明智秀満の湖水渡りを題材にした江戸時代の浮世絵師歌川国久の浮世絵や、明治の絵師小林清親の日本画などが所蔵されている。

【2007年2月2日掲載】

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