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(37)大塚古墳(綾部市青野町)

以仁王伝承で保存
「駐車場のおかげで塚の周りもにぎわっている」と出口さんが語る大塚古墳(綾部市青野町)
 駐車した車の群れの中に、四本の大きな木が伸びる高さ五メートルほどのこんもりとした丘が見える。中央には、小さな二つの祠(ほこら)が…。
 綾部市青野町の綾部市立病院近く。地元の人に「大塚」と呼ばれるその丘は、長さ約十メートル、幅約四メートルの盛り土がされた方墳。開発が進む市街地にこの種の古墳が残るケースは珍しいという。
 地元には、平家討伐の旗を揚げた皇子・高倉宮以仁王(もちひとおう)にまつわる伝承が残り、この塚に、その遺体を葬ったとも、甲胄(かっちゅう)を埋めたとも伝わる。
 綾部町史によると、明治時代、大塚付近の田普請に出かけた近くの出口家の当主や農家など四、五人が、塚に上り休憩。地中に竹さおを差し込んでみたところ、さおはずぶずぶと深く入り、固い石棺のようなものに突き当たった。その瞬間、地中から妖気が舞い上がり、上にいた人々は気分が悪くなって、高熱でしばらく病に伏せた。以来、たたりを恐れ大塚にさわる者はなかったという。
 以仁王は、一一八〇年、源頼政とはかり、平家討伐の令旨を全国の源氏に送った。計画を知った平家が、以仁王、頼政らを追撃。宇治川の合戦で頼政は自害し、以仁王も落ちのびる途中、南山城光明寺の鳥居前で追っ手の矢が当たり、討ち取られたとされる。
 しかし綾部市には、以仁王が、ひそかに同市吉美地区にまで逃げ落ち、腹部の矢傷が悪化してここで落命したという伝承が残る。同地区には、以仁王を祭る高倉神社(高倉町)があり、村人が王の傷を「癒やそう」と祈り、笛を吹きながら踊ったともされる「ヒヤソ踊り」(十月)が伝わる。
 同神社の四方幸則宮司は「以仁王が、由良川を挟んだ北に広がる吉美に渡るため、荷物を埋め、矢傷を癒やしたのが、吉美の手前の大塚の地だったのでは」とみる。
 代々塚を守っている出口貴志野さん(八〇)は「霊験あらたかな神様として守り続けて私で七代目になります。月に一度は、仏様を納めた祠の前で家内安全などを願い、お神酒を供えています」と話す。
 近澤豊明・綾部市資料館長は「大塚古墳は、古墳時代のもので、後世に付けられた以仁王伝承が、結果として市街地には珍しい高さのある古墳を守った」と解説する。
【メモ】高倉神社は以仁王を腹痛の神様として祭り、腹痛よけの御利益があるとされる。一方、大塚古墳では、春になると塚に生える2本の桜の木が満開の花を咲かせ、ささやかな花見の宴も催される。同古墳はJR綾部駅前から、徒歩約10分。

【2007年2月6日掲載】

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