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(52)血洗池(京都市山科区)

名前由来 四つの説
京都薬科大グラウンドの一角にある「義経の腰掛石」。ブロック塀の向こうに池がある(京都市山科区御陵血洗町)
 住宅が立て込む山科区御陵地区。京都薬科大グラウンド南端の、ブロック塀ごしに下方をのぞき込むと、家の敷地に囲まれた三メートル四方のくぼみに清澄な水が見え、コイや金魚が遊ぶ。これが「血洗(ちあらい)池」と地元で呼ばれている池のなごりらしい。
 ブロック塀の前方には、地面から約三十センチほど突き出た四角い石に、「義経の腰掛石」と看板書きがある。それによると、牛若丸(源義経の幼名)が京都から奥州に向かう途中、この付近で盗賊に襲われ、盗賊を切り倒した。その刀を洗ったのが隣の血洗池で、牛若丸はこの石に腰掛けてしばし休息したのだという。
 白々とした日差しに包まれた住宅地の片隅に、「血洗」の伝承。ちょっとギャップがありすぎてにわかに信じがたい。
 往時を知る古老を地元に訪ねたが、すでに代替わりも進み、聞くことはかなわなかった。古くから竹工芸店を営む主人の紹介で、五十年近く前から池の近所に住む澤野井紘一さん(六六)を訪ねた。
 「この辺はね、越してきたころは田んぼばっかりで、カエルの鳴き声がうるさい所やった」と、澤野井さんは語り始めた。地元の人の話では、昔は竹やぶがうっそうとしており、子供でも遊ぶのが怖かったのだという。くだんの血洗池も、宅地化する以前はもっと広かったといい、「水はその辺からポコポコわいてましたんや」。東海道近くに広がる暗い竹やぶに、わき水の池。御陵の原風景が目に浮かぶようだ。
 血洗池には別の伝承もあるという。牛若丸は盗賊に襲われたのではなく、蹴上ですれちがった平家の侍関原与一に水を蹴(け)り上げられたことに怒り、一党を切り捨てた、その刀を洗ったのだという説。これは江戸時代の「擁州府志」にも記述がみられ、「蹴上」の地名の由来にもなった逸話だ。「ほかにもあるで」と、地元の人から聞いた話としては、木曽義仲が義経に敗れ大津へ落ちゆく途中で、巴(ともえ)御前とともに血で塗れた刀を洗ったという説。全部で四つの説があるという。
 「まあ、はっきりしたことはわからないから伝承なのでしょう。ともかく血洗池がそこにあることは事実なのです」と澤野井さん。わずかに残された池は、現在に残る「血洗町」の町名の由来を語る。
【メモ】血洗の伝承を伝える「義経の腰掛石」は、地下鉄東西線御陵駅から徒歩約10分。中世では、東海道は江戸時代よりも南寄りで、腰掛石付近を通っていたという説もある。一帯は京焼の清水六兵衞にちなむ「六兵ヱ池」など、わき水が多いが、池のほとんどは埋め立てられ公園や住宅地となっている。

【2007年3月6日掲載】

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