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(63)霧がくれの弥陀(宇治市)

お告げ聞き迎える
伝説の阿弥陀像を安置する本堂と一夜彫りの石不動をまつる小堂(宇治市木幡)
 宇治市の北東部の木幡地域は、古くは関が置かれ、京都の結界の地として中世の都人にとって魔性がすむ世界と恐れられていたという。JRと京阪電鉄の木幡駅のほぼ中間、奈良街道沿いにある浄土宗の寺、願行寺に、いにしえの伝説をまとった二つの像がある。
 同寺は鎌倉初期に開かれ、慈心院尊勝寺(観音寺)と呼ばれていたが、幾多の兵火で荒廃し、一五七六(天正四)年に願行寺として再興されたと伝えられている。本堂にまつる木造の阿弥陀(あみだ)如来立像は平安末期の作風を強くとどめた鎌倉期の作とみられているが、優しく穏やかな顔立ちの本尊を迎えた不思議ないきさつが寺に語り継がれている。
 それによると、寺は応仁の乱で消失し、およそ百年後に小堂を再建した。落成のころ、総代世話役五人の夢枕に阿弥陀仏が現れ、「鈴鹿峠に出向いて新たな本尊を迎えよ」と同じお告げを聞いたという。
 このため五人が鈴鹿峠に赴いたところ、仏像を背負った白髪の老人が現れた。仏像を受け取ると、にわかに霧が立ち上り、それが晴れると老人の姿もなくなっていた。総代世話役らは持ち帰った仏像を「霧がくれの弥陀」として手厚くまつり、白髪の老人は鈴鹿峠の先にある伊勢神宮の天照大神の化身だとして広く信仰を集めたという。
 同寺に生まれ、戦時中から六十年にわたり第五十代住職を務めた先代の高志晋順さん(九一)は「代々そう伝わっているが、伊勢神宮と寺を関係付けようとしたのかもしれない」と穏やかに話す。明治維新の廃仏毀釈(きしゃく)で、木幡地域でもほかの五つの寺が廃された苦難の歴史があったという。
 その廃寺となった阿弥陀寺から願行寺に移されたとされるのが、本堂脇の小さな堂にまつられている「一夜彫りの石不動」だ。
 平安時代、平清盛が、保元の乱で破って讃岐(香川県)に流した崇徳上皇の怨念(おんねん)を恐れ、工人に一夜のうちに彫らせたと伝えられている。上皇方の軍勢が奈良方面から京へ攻め入ろうとする悪夢をみた清盛は、木幡関の外に南向きに安置して退散を祈願したという。一夜彫りとあって顔立ちがはっきりしないが、素朴さが伝わる石像だ。
 戦時中は、米軍の空襲で本堂の屋根に流れ弾が当たったこともあり、高志さんは「仏像類を蔵に隠して難を逃れました」という。駅乗降客らが行き交う街道沿いで、今も二体の像は穏やかな表情をたたえ続けている。
【メモ】願行寺は、1238(暦仁元)年に木幡の関守清水勝宗が一門の菩提(ぼだい)寺として慈心上人を開基に建立。ただ念仏による信心を説く「木幡派」専修念仏の拠点として重きをなした。本尊の木造阿弥陀如来立像のほか、恵心僧都の作と伝わる平安後期の阿弥陀如来座像があり、宇治市指定文化財となっている。JRと京阪電鉄の木幡駅から徒歩1分。

【2007年3月27日掲載】

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