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(65)名和長年戦没遺蹟(京都市上京区)

世評、荒波のごとく
現在は児童公園の中にある名和長年の戦没遺蹟(京都市上京区)
 京都市上京区の西陣・聚楽学区に名和公園がある。子どもたちの歓声が響く児童公園に、巨大な石碑が立っている。南北朝時代に京で戦死した鳥取県の武将・名和長年の名が刻まれた碑は、戦時中の皇国史観、最近でも少子化、市町村合併など時代の移り変わりの影響を受けてきた。
 名和長年は伯耆(ほうき)国(鳥取県)の出身。隠岐島に流刑されていた後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府の倒幕に貢献する。楠木正成、結城親光、千種忠顕と並んで「三木一草」と称されて建武の新政で要職についたが、一三三六年、足利尊氏に討たれた。戦死した場所が、今の公園辺りとされる。江戸時代までは、「不遇の死を遂げた長年のたたりがあるとのうわさが広まり、人が近づかなかった」ともいわれている。
 長年の評価は、明治に逆転する。天皇中心の国づくりを目指す政府は、天皇を献身的に助けた長年に正三位の称号を贈り、一九三五年には従一位を授けた。当時の教科書には英雄として紹介され、太平洋戦争開戦直前の三九年には、没した地に功績をたたえる石碑(高さ約三メートル)が完成した。
 終戦後、長年の名は教科書から消え、地元でも名和公園の由来を知らない人が増えたという。ところが、終戦から四十年後の八六年に、また転機が訪れる。長年の出身地の鳥取県名和町から、没後六百五十年を記念し、「石碑を管理してくださる聚楽学区と姉妹関係を結びたい」との要請があった。
 その後、小学生が交互に訪問するようになり、名和町の子どもたちが西陣織の体験をするなど交流を深めていたが、今度は、聚楽学区の小学校が少子化の影響で九七年三月に閉校。名和町も市町村合併で「大山町」となり、名前が消えた。交流事業も途絶えたままになっている。
 大山町の担当者は「交流の予算付けも難しく、再開予定はありません」といい、聚楽社会福祉協議会の桜井五郎会長(七三)は「また知らない住民が増え出した。寂しいですよ」と話す。
 没後五百年以上たって建立された石碑は、現在、閑静な住宅地にたたずんでいる。自分の名が戦意高揚に利用され、地域交流にも生かされた長年。このまま消え去ってしまうのだろうか。
【メモ】名和長年戦没遺蹟は、大宮通一条下ルにある。遺跡の創建は1886(明治19)年とされ、今の石碑は1939(昭和14)年に建てられた。現在は京都市の児童公園で、石碑は上京区の史蹟百選にも選ばれている。市バス・大宮中立売から徒歩1分。

【2007年3月29日掲載】

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