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(72)鐘撞山(南丹市園部町)

「大蛇伝説」後世に
朝、昼、夕の1日3回、時を告げる南陽寺の鐘。後ろに見えるのが鐘撞山のふもと(南丹市園部町美園町・南陽寺)
 京都府南丹市のほぼ中心部の園部町美園町に、標高約五十メートルの小高い山がそびえる。昔、子どもを背負った若者が朝、夕二回、鐘を突く姿が見られたことから、いつしかその山は鐘撞(かねつき)山と呼ばれるようになった。
 伝説によると園部町が寂しい寒村だったころ、山のふもとに仙之助という気だての優しい若者が年老いた母親と一緒に平和に暮らしていた。
 ある夜、一人の若い娘が宿を求めて訪ねてきた。身寄りのないことを知った二人は、引き止め、娘も恩返しに心から母子に仕えた。まもなく仙之助と娘にかわいい子どもが誕生したという。
 ある日、仙之助がいつものように帰宅すると、その日だけ妻の出迎えがない。部屋をのぞくと中にいたのは大蛇だった。
 妻は「本当は山にすむ大蛇です。あなたに尽くそうと人間に化けていましたが、正体を隠すのを忘れて眠ってしまいました」と打ち明けた。そして「山に戻ります。ただ岩穴の入り口を農家の人が壊す計画があるので、昼夜が分かるよう朝、夕、鐘を突いてください」と泣いて戻って行った。
 その後、仙之助は言われた通り、毎日、鐘を突き続けたという。
 鐘撞山の頂上付近には実際に鐘撞堂があった。ふもとの南陽寺の文献などによると、園部藩主・小出英貞公が一七三一(享保十六)年、釣り鐘を同寺に寄進したとされ、府立総合資料館(京都市北区)所蔵の園部城内明細図(明治初期)には鐘撞堂が番小屋とともに記されている。鐘はその後、同寺の境内に下ろされたが、二度の火災で文献の多くが焼失し、その年代は定かではない。
 同寺の十五世住職の故岡田了範さんは戦時中、金属の供出が求められた際、「いわれのある伝説の鐘だから出せない」ときっぱり断ったという逸話も残る。同住職の二男で園部町栄町に住む岡田完司さん(六四)は「子どものころ、よく父に連れられて山に登った。当時は鐘撞堂跡がきれいに残っていた」と懐かしむ。しかし、国道9号の建設工事で山の一部が削られ、今は頂上付近も生い茂る木々や雑草に覆われた。
 同寺では現在も毎日、午前六時、同十一時、午後六時の三回、鐘を鳴らし、時を伝えている。現住職の岡田紀章さん(三六)は「寺に伝わる伝説と鐘を鳴らす習慣を大切に後世に伝え続けたい」と話す。
【メモ】「鐘撞山」へは、JR山陰線園部駅から徒歩約15分。同駅から国道9号を福知山方面に進むと、左手に鐘撞山が見える。その南側に南陽寺があり、境内の山門近くに時を伝える鐘がある。山頂の鐘撞堂跡に行くのは、草が茂っており困難。

【2007年4月11日掲載】

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