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(86)芹生の「寺子屋」(京都市右京区)

隠れ里が名舞台に
「寺子屋跡」と伝わる場所に建つ天満宮。鳥居の向こうに架かる寺子屋橋の下には灰屋川が流れる(京都市右京区京北芹生)
 歌舞伎「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」のヤマ場となる「寺子屋」。その寺子屋の跡と伝わる場所が京都市右京区京北の芹生(せりょう)にある。市内からは、貴船の北側標高七〇〇メートルの芹生峠を越え、ようやくたどり着く集落だ。松竹演劇部の水口一夫さんは「往来が容易でない京都郊外の隠れ里が寺子屋というストーリーに最適だった」と話す。
 物語は平安時代。芹生の寺子屋に地元の子に混じり、高貴な顔立ちの子が一人いる。菅原道真が藤原時平の謀略で太宰府に流された中、道真の子・菅秀才(かんしゅうさい)を忠臣・武部源蔵がかくまっているのだ。
 ある日、居所を知った時平側が菅秀才の首を要求する。切羽詰まった源蔵は、この日、寺子屋に初めて来た利発そうな子の首を身代わりに打ち、差し出した。その首をじっと見た時平の使者・松王丸は「菅秀才の首に相違ない」と帰って行く。
 しかし、実は首を打たれた子は松王丸の実の子だった。松王丸は心ならずも時平に仕えているが、心の底では父・白太夫(しらたゆう)らが仕える菅原家に役立つことを望んでいた。そして菅秀才を救うために、わが子を初めから身代わりにする覚悟で寺子屋に預けたという筋書きだ。
 現代では考えられない物語だが、松王丸が忠義とわが子への情愛のはざまで、こうした選択をせざるを得なかった苦悩を描く。わずか十歳で身代わりになった実子を野辺送りする場面は、悲しみを詩情で包んだ名舞台だ。
 これらの物語は実は江戸中期の創作で、菅秀才や源蔵らは実在しないといわれる。ところが芹生には、いつしか「寺子屋の跡」と伝わる場所があり、そこには天満宮まで建っている。地元の前田泰さん(七六)は「社は私が小学生の時に建てられました」と教えてくれた。
 史料を見ると、天満宮は一九四三(昭和十八)年建立とある。芹生にあった分校の教員が尽力し、松竹創業者・白井松次郎や初代中村吉右衛門の協力も得て建てられたという。戦時中だけに、忠義を重んじる話がもてはやされたのかもしれない。浄瑠璃を聞く会も催され、にぎわったという。
 ただ、現在の芹生には民宿を営む前田さんなど八軒の民家が残るのみ。いたずら盛りの子が多く登場する物語の舞台が、今や「限界集落」というのは寂しい気がする。
【メモ】芹生で前田さん夫婦が営む民宿「芹の里」TEL0771(56)0115は、地鶏や山菜料理を振る舞う(予約が必要)。歌舞伎の「寺子屋」は、南座・顔見世興行の明治以降100年の歴史を調べると、勧進帳(26回)、寿曽我対面(17回)に次いで16回上演されており、人気ぶりがうかがえる。

【2007年5月9日掲載】

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