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(87)平重衡の首洗池と不成柿(木津川市木津)

落日の武将 終息地
柵に囲まれた首洗池と石碑そばに立つ不成柿(木津川市木津雲村)
 ショウブが二輪、鮮やかな青の花を咲かせていた。五月のはじめ、木津川市木津にある小さな池。そばに立つ柿の木も、もえるような青葉を枝いっぱいに付ける。木津川にほど近い場所にある「首洗池(くびあらいいけ)」と「不成柿(ならずがき)」は、この地で最期を遂げた平家の武将、平重衡(たいらのしげひら)とかかわりが深い。
 平安時代末期、絶大な権勢を誇った平清盛。その五男だった重衡は、清盛の専横に反発する動きが本格化するなか父の命を受け、一一八〇(治承四)年に反平家の興福寺や東大寺を焼き打ちし、南都勢力の憎悪を買った。
 その後清盛は病で没し、相次ぐ反乱で平家は都落ちした。重衡は衰亡に向かう一門を武勇で支えたが、「平家物語」の見せ場の一つである源義経の逆落としで知られる「一ノ谷の戦い」(一一八四年)でとらわれの身となる。
 鎌倉に送られた重衡は源頼朝の元で一年余りを過ごすが、焼き打ちを受けた南都衆徒が身柄の引き渡しを再三にわたり要求。奈良に送られる途中、木津川のほとりで首を切られた。
 「木津町史」によれば、首洗池は文字通り重衡の首を洗った池と伝わる。直径約一・五メートル。元の池はJR奈良線の開通に伴ってなくなったとの説もあるが、五十年以上も池の世話を続ける近所の岡嶋静枝さん(八〇)は「わざわざ東京から線香をあげに来る人もいます」と話す。ミズハギなども植えられ、季節には水面を彩る。
 傍らの不成柿は、江戸時代の地誌「山州名跡志」にも登場。重衡が死の直前に柿を食べたとされるのにちなんで、地元の人が植えたという。しかし全く実をつけなかったことが名前の由来となった。何度も代替わりしており、二十年以上前に植えられた現在の木は、秋になると小さな実がなるが、「以前の木には実は見られなかった」(岡嶋さん)とか。
 鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」では、頼朝が重衡の人物を評価していた点を記しており、駆け足で落日に向かう平家一門での活躍は敵も認めるところだった。南都焼き打ちの悪人となり、時代の敗者ともなった重衡は、終息の地にもその存在を刻む。
【メモ】首洗池と不成柿はJR木津駅から北へ約700メートル。周辺の市営住宅の名称は「重衡団地」。不成柿のそばには「天和三(1683)年六月九日」の銘のある碑が立つ。近くの安福寺の本尊・阿弥陀(あみだ)如来坐像は重衡の引導仏と伝わり、境内には墓とされる十三重の石塔もある。

【2007年5月10日掲載】

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