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(91)内蔵助の断食石(京都市山科区)

寝食忘れ秘策練る
大石内蔵助がこの上に座し、寝食を忘れて討ち入りの策を練ったとされる「断食石」(京都市山科区西野山・花山稲荷神社)
 江戸時代中期、主君のあだ討ちで知られる元禄赤穂事件。京都市山科区西野山一帯には義挙を主導した大石内蔵助良雄にまつわる伝承が多く残る。
 花山稲荷神社にある「断食石」は、内蔵助が腰を掛け寝食を忘れるほどに討ち入りの秘策を練ったといわれる。拝殿の前にあり、畳一畳分ほどの大きさで高さが約五十センチ。傍らには「大石良雄公遺跡」と刻まれた石碑が建ち、忠臣蔵のファンや観光客が訪れ見入る。
 播州赤穂藩主だった浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で刃傷に及び切腹したのは元禄十四(一七〇一)年三月十四日。花山稲荷神社から南に約一キロ、内蔵助とゆかりの深い大石神社の神社由緒書によると、赤穂藩が改易(領地没収)となり、城代家老の内蔵助が城を明け渡した後の同年六月二十八日、親類の進藤源四郎を頼り、現在は同神社があるこの地に移ったという。人里から離れていたが、東海道や京都に近く交通の便がよかったことから、ここで頻繁に同志と会合を開いたとされる。
 山科に隠れ住んでいたころの内蔵助は、しばしば花山稲荷神社を参拝していたという。同神社の中川正也宮司(六八)によると、元禄十二(一六九九)年に源四郎が社殿を寄進した記録が残る。「親類と縁の深い神社なのだから、内蔵助が足を運んだのは確かでしょう」と中川宮司は推測する。神社へ足しげく詣でた内蔵助。断食石を前にすると、岩に座して主君の敵をいかに討つかを考え抜いた姿が頭に浮かぶようだ。
 この断食石の出自には異説もある。中川宮司は「明治になってこの辺りを開拓したとき、大きな岩を爆破したそうです」と話す。当時の宮司が、その中で一番大きな破片を境内に置いたのが断食石という。
 花山稲荷神社には、内蔵助が血判状を書くときの台にしたという「血判石」や、内蔵助が奉納したとされる鳥居もある。血判石は、本殿を囲む塀の中にひっそりとたたずみ、鳥居は本殿の裏に保管されている。いずれも「本当に内蔵助とゆかりがあるのかどうかは分かっていない」と中川宮司。それでも、内蔵助を慕う参拝客が伝承の品を眺め、山科に隠せいしていたころの内蔵助をしのんでいる。
【メモ】花山稲荷神社TEL075(581)0329は、京都市営地下鉄東西線「椥辻駅」から徒歩約30分。同駅から京阪バスで「花山稲荷」下車すぐ。近くには大石神社や岩屋寺、山科神社など内蔵助とゆかりの深いスポットが多い。

【2007年5月17日掲載】

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