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(92)伏見義民(京都市伏見区)

悪政耐えかね直訴
伏見の町人を救った義民たちをたたえる石碑(京都市伏見区・御香宮神社)
 新緑に包まれた御香宮神社(京都市伏見区)の築山に高さ約四メートルの白い石碑が立っている。石の表面には、江戸時代に命がけで町を救った七人の伏見義民をたたえる文が刻まれている。
 「御訴訟でございます」。一七八五(天明五)年、秋の江戸。下城途中の寺社奉行松平伯耆守を乗せたかごに、二人の男が駆け寄った。伏見の鍛冶(かじ)職人文珠九助と、農業を営む丸屋九兵衛が差し出した訴状には、伏見奉行小堀政方の暴政が記されていた。
 当時、伏見は京都と大阪を結ぶ船の港があり、参勤交代の宿場町としても栄えた。幕府は政治、経済の要所として直轄の伏見奉行所を設けていた。
 御香宮神社や氏子らでつくる伏見義民顕彰会などによると、小堀は幕府で権勢をふるった老中田沼意次の推挙を受けて着任したが、間もなく愛人らと酒におぼれた。その費用は増税や家の普請時に取り立てる御用金などで賄った。大飢饉(だいききん)の混乱も重なり、町衆は苦しめられた。
 悪政に耐えかねた文珠ら伏見の町人七人は、処罰を覚悟で幕府への直訴を計画、実行した。伯耆守の温情や権力争いの影響もあり、小堀は罷免された。しかし、直訴直後に病死した一人をのぞく六人が捕らわれ、四人は獄死、残る二人も江戸で取り調べ中に亡くなったとされる。
 「直訴の成功は封建社会において衝撃的な事件だったはず。町民の誇りを示す出来事になった」と御香宮神社の三木善則宮司(六二)は説明する。事件を物語風に記した「雨中之鑵子(うちゅうのかんす)」などの文献や義民の宿坊などゆかりの地も今に残る。
 雨中之鑵子は昭和初期の大恐慌時の混乱で散逸したが、三木宮司の祖父らが復刻した。三木宮司も地元の小学校などで義民について語り続ける。「神社もまた、悪政に苦しめられていたはず。義民の存在を伝えることは、わたしたちの責務」と力を込める。
 石碑は一八八七(明治二十)年、義民の百年祭に合わせて伏見の有志らが建立した。文は勝海舟、題字は三条実美が揮毫(きごう)したという。十八日には、顕彰会による恒例の慰霊祭が営まれ、義民たちをしのぶ。
【メモ】碑は御香宮神社境内の南西にある。慰霊祭は5月18日午前11時から碑前で営まれる。顕彰会のメンバーをはじめ、義民の子孫も参加し、義民をたたえる漢詩の吟詠などを行う。近鉄桃山御陵前、京阪伏見桃山、JR桃山の各駅から徒歩約5分。御香宮神社TEL075(611)0559。

【2007年5月18日掲載】

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