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(93)戻ってきた毘沙門天(舞鶴市多門院)

住民らの心の支え
江戸時代に持ち去られたが、戻ってきたと伝わる毘沙門天立像(舞鶴市多門院・興禅寺)
 福井県、綾部市と隣接する舞鶴市南東部に位置する多門院。約五十戸が暮らすこの集落を、興禅寺にある毘沙門天像は平安時代から見守り続けてきた。しかし地元の言い伝えでは江戸時代前期ごろ、像が地区を離れたことがあるという。
 一六一六年のある日、伊勢の国から慶龍という御師(おし)(祈とうなどの世話をする中下級の神職)が「多門院に立派な仏がある」と聞きつけ、村へやって来た。札を売り歩きながら仏を探し歩き、興禅寺で毘沙門天像を見つけた。村人と和尚がいなくなったのを見計らって像を盗み出し、伊勢に逃げ帰ったという。
 その日の夜。慶龍は部屋の棚の上に像を置いて眠りについたが、ガタガタと棚が揺れる大きな物音で目を覚ました。見ると毘沙門天像が震えており、そのうち「早う丹後へ帰りたい」と言いながら枕元まで下りてきた。
 翌日からも毎晩、同じことが起こり、怖くなって数日後、寺に像を返しに来た。別の言い伝えでは、村人たちが慶龍を追い求めて伊勢に行き、六年後に取り返して戻って来たとも言う。
 「どちらの話も、村人が守り神として像を大切にあがめていた心の表れだろう」と岡義道住職(七二)。「毘沙門天像は多門院だけでなく、今の東舞鶴駅近くまで多くの住民の心の支えだった。昭和二十年代ごろ、像を開帳する八月二日には露店が寺の前の通りを埋め、盆踊りが翌朝まで続いたものだ」と振り返る。
 像は寺の門前から続く石段を上がったお堂に安置されており、今は毎年八月第一日曜に開帳している。しかし参拝者は年々減少傾向。若い世代には像が国の重文に指定されていること、言い伝えを知らない住民も増えつつあるという。
 興禅寺は天台宗に始まり、その後長く真言宗となった。一六二五年、椿庭禅師が寺を再建して臨済宗に改宗した、と伝わる。岡住職は「ずっと禅寺だったら、毘沙門天像が置かれることもなかっただろう。この像は地区や寺の歴史を物語る存在であり、先祖代々が守ってきた宝だ」と語る。
 時代は変わっても、毘沙門天像はりんとした姿で立ち続けている。
【メモ】JR東舞鶴駅から地元の自主運行バス(平日4往復、土日祝運休)で「材木」下車。二反田橋を渡り、道なりに北へ徒歩約5分、赤い屋根が興禅寺。車なら舞鶴若狭自動車道・舞鶴東IC出口から東へ約2キロ。開帳日は午後2時から法要を営む。問い合わせは同寺TEL0773(62)9684。

【2007年5月22日掲載】