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(95)猿ケ辻(京都市上京区)

暗殺劇 真相は闇に
京都御所の北東角に当たる「猿ケ辻」。築地塀の瓦の下に猿の彫像が祭られている(京都市上京区)
 京都御所を囲む築地塀。その北東角の辺りを「猿ケ辻」と呼ぶ。御所の鬼門にあたるここは魔よけのために塀の角がへこませてあり、よく見ると、軒下に御幣を持った猿の彫像が祭られている。
 幕末の動乱期、この「鬼門よけ」のへこみに何者かが身を潜め、尊皇攘夷派の若い公家を暗殺する事件が起きた。一八六三年五月の猿ケ辻の変だ。
 襲われたのは当時、三条実美とともに攘夷派の中心人物だった姉小路公知。日米修好通商条約の締結に反対し、前年には朝廷の副勅使として幕府に攘夷実行を強く迫っていた。
 五月二十日夜、御所での会議を終えて門を出た公知は従者三人とともに帰途についた。猿ケ辻に差しかかった時、突然、刀を持った黒い影に道を遮られた。公知は従者に「太刀を」と求めたが、太刀と提灯を持った従者二人は後ずさりして逃げてしまう。
 公知は手元にあった扇で応戦するほかなく、顔や胸を切られて重傷を負った。残った一人の従者に抱えられて屋敷に戻ったが、まもなく息絶えたという。
 当時、姉小路家とかかわりの深かった跡見花蹊(かけい)(のちの跡見学園女子大学創立者)の日記にも、この事件の様子が書かれている。近年整理されたその日記によると、凶漢は三人。公知は胸に深さ十二センチの傷を負いながらも、相手の太刀を奪って切り返したという。
 「花蹊の弟も姉小路家に仕えており、事件の際に逃げなかった従者と親しかった。花蹊はこの従者から直接、事件の様子を聞いて書いたのでしょう」と岩田秀行・跡見学園女子大教授(江戸文学)は話す。突然の訃報に、京都では「泣く者ばかり」だった、とも日記には書かれている。
 事件後、犯人として一人の薩摩藩士が浮上し、取り調べられた。しかし彼は詳細を語らないまま自殺してしまう。誰の陰謀で誰が実行したのか、真相は歴史の闇に消えた。
 もしも「鬼門よけ」という死角がなかったら、待ち伏せは成功しなかったかもしれない。あの夜、築地塀から真犯人を見ていたであろう猿の彫像は、今もただ静かに座っている。
【メモ】姉小路公知の墓は御所に近い清浄華院(京都市上京区寺町通広小路上ル)にある。「猿ケ辻の変」は歴史小説の題材にもなり、司馬遼太郎の作品などに描かれている。

【2007年5月24日掲載】

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