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(96)栄子姫と思川(甲賀市)

悲劇の姫さまよう
栄子姫の悲話が伝わる思川(甲賀市水口町山)
 甲賀市水口町の北部を流れ、隣の湖南市で野洲川と合流する思川(おもいがわ)。ロマンチックな名前のついた小さな川には、地元の人に語り継がれる悲しい姫の話がある。
 水口の東北部にある古城山(二八三メートル)には戦国時代に水口岡山城という城があった。豊臣秀吉の重臣の一人で、最後の城主となった長束正家は一六〇〇(慶長五)年の関ケ原の戦いで西軍に加わり、水口に敗走する。城は攻められ、正家は正室の栄子姫とともに日野へ逃走しようとする。
 栄子姫は身重だった。逃げる途中で正家とはぐれ、一人で山中をさまよう。村人にかくまってくれるよう頼んだが、徳川方ににらまれるのを恐れて断られてしまう。
 「もうこれまで」。そう思った姫は近くの川に身を沈めようと川辺にうずくまった。だがおなかの子どものためにと思い直し、再び川沿いを歩き出す。結局、旧臣の家にかくまわれて男の子を産むが、間もなく死没する。姫が思いをめぐらせた川は「思川」と呼ばれるようになった−。
 「姫がさまよったのはこの辺りです」。水口町郷土史会の前川重男さん(七五)=甲賀市水口町山=が地図を広げながら足取りを教えてくれた。「悲劇のお姫さまとして、いろいろな言い伝えがありました」。姫が途中でくしを落としたところは「くし」が転じて「姫の口」の地名になったという。
 栄子姫が産んだ子はその後、成長して仏門に入り、母と日野で自害した父のために同市水口町北脇の地蔵堂を改築して栄照寺を建立した。同寺では二人の四百回忌にあたる七年前に、郷土史家らが法要の集いを開き、姫にちなんだ詩吟の奉納もあった。「郷土の歴史を見直そうという動きもあって、話を聞きに来られる方も時々いらっしゃいます」と蓮見豊正住職(五六)は話す。
 地元でしのばれる姫の物語。だが、市の市史編纂(へんさん)室の米田実さんによると、実は鎌倉時代の古文書に「思河」が登場し、名前の由来になったという点については後世に作られた可能性が高いようだ。「不思議な川の名前と姫の悲話が自然と結びつき、こう語られるようになったのでは」と米田さん。名前の本当の由来は、なぞだという。
【メモ】思川は延長13.2キロの1級河川。甲賀市水口町松尾から伴谷地区を経て湖南市岩根で野洲川と合流する。古城山では甲賀市水口町観光協会が毎年4月に長束正家の霊を弔う例祭を営んでいる。古城山は近江鉄道水口駅から徒歩約20分。同協会TEL0748(65)0708。

【2007年5月25日掲載】

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