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(103)新釜座町の神田神宮(京都市下京区)

平将門の霊鎮める
京都だけではなく、関東方面からの参拝もある神田神宮(京都市下京区)
 にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある。一軒の民家を見ると、手入れが行き届いた小さな祠(ほこら)が建つ。鉄板には「史蹟(せき)神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。
 この祠がある家で生まれ育った柴田文昭さん(六〇)は「いつ、なぜ、この地に建立されたかは分かりませんが、代々、大切に受け継いできた」と語る。平将門をしのび、地元だけではなく、関東からも参拝があるという。
 将門は桓武天皇の子孫で九〇三(延喜三)年ごろに生まれた。下総国(現在の千葉県北部など)を本拠とし、上洛して藤原忠平に仕えた。しかし関東一帯に平氏一門の間で抗争が広がり、将門は関東諸国を次々に占領した。さらに朝廷に対抗し、「新皇」を名乗ったことから逆賊とされ、九四〇(天慶三)年に反対勢力に滅ぼされた。
 討ち取られた首は京都の町でさらされた。伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをした。ある夜、突然、首が笑いだした。そして白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。
 その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれた。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にある。京都の神田神宮は、空也上人が将門のために、新釜座町の地に供養道場を建てたのが始まりだという。
 将門の評価は歴史とともに変遷する。中世には祟(たた)りを恐れられ、江戸時代には最初の武士として幕府の庇護(ひご)を受けた。しかし明治時代には再び逆賊とされ、戦後は逆に朝廷の横暴と闘った英雄となり、人気を集めた。
 地元で生まれ育ち、毎日のお参りを欠かさない杉浦健之祐さん(七八)は「私が子どもの時分は、将門さんの名を口にするのはどこかタブーでした。堂々と、お参りできるようになったのは、戦後になってから。歴史を知るにつれ、ほんまに偉い人やと思います」と語る。
 今でも、将門の首を切ったと伝えられる子孫が定期的に訪れるという。千年以上を経た今も、将門伝説は消えていない。京都の町民の反骨と優しさが現れた祠だ。
【メモ】神田神宮は京都市下京区四条通西洞院東入ル新釜座町の民家前にある小さな祠。地下鉄四条駅から西へ約300メートル。逆賊として討ち取られた平将門の首がさらされた地とされ、東京都千代田区の神田神社境内にある将門社の分身を移したと伝わる。将門の首を祭る神社や首塚は全国各地にある。

【2007年6月7日掲載】

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