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(104)宝積寺の鬼くすべ(大山崎町大山崎)

世の災い 煙で撃退
 いにしえの都があった山城国(京都府)と、摂津国(大阪府)をまたぐ天王山。その中腹に真言宗智山派の古刹(こさつ)・宝積(ほうしゃく)寺はある。毎年四月、護摩をたく炎に青葉がくべられると、本堂は目を開けていられないほどの煙に包まれる。
 疫病退散を願う伝統行事「大厄除追儺(ついな)式」で、この世の災いの象徴である鬼を煙でいぶし出すことから「鬼くすべ」とも呼ばれる。今年も、その式を執り行う信者らとともに、多数の参拝者が本堂内に入って自分の中の「鬼」を追い払おうと、充満する煙に耐えた。
 追儺式は各地の社寺で行われているが、煙で鬼をいぶす手法と並んで、ユニークなのが、本堂のかもいに掛けられた多数の鏡もち。直径約十五センチ、厚さ四ミリほどの円形で、牛王(ごおう)の札が添えられ、二本の細い竹で挟まれている。
 蓬(よもぎ)の矢や桃の弓などで追われた鬼は、この鏡餅にうつる自分の醜さに驚いて退散するという筋書きだ。信者の間では式後、持ち帰った鏡もちを玄関口に掛けて魔よけとして使う信仰が今も受け継がれている。
 同寺の追儺式がいつ始まったかを、明確に語る資料はない。町史や寺伝によると、慶雲三(七〇六)年に国内で疫病が流行し、多くの民が苦しんでいた。そこで時の文武天皇は、当時最も信頼を置いていた行基に、追儺式を執り行い疫病を退散させるように命じた。
 翌年の慶雲四年には、身長八丈(約二四メートル)、横幅一丈二尺(約三・六メートル)の一頭三面の鬼がこの地に現れたが、この時も行基の力で、鬼はたちまち消滅したと伝えられる。
 七二四年に寺を開いた行基が、追儺式を寺でも行ったと考えられ、同寺の寺石典亮・副住職(五二)は「民の不安を、分かりやすく取り除く手法だったのでしょう」という。
 同寺が位置する山城国と摂津国の国境では、かつて疫病などの災いを退散させる「辻祭」が盛んに行われていた。この地をたびたび訪れた歌人、藤原定家は、その様子を自身の日記「明月記」に残している。
 同町教委は「辻祭が徐々に形を変えながら、宝積寺での追儺式に融和していったのでは」と推測する。今でも追儺式は無病息災などを願う大勢の人でにぎわう。
【メモ】通称・宝(たから)寺。鎌倉時代の作で4体を従えた木造閻魔(えんま)王坐像(ざぞう)や、本尊の木造十一面観音立像のほか、建造物としては三重塔など、数多くの国指定重要文化財を有する。JR山崎駅から天王山登山道を北に徒歩約10分。問い合わせは、同寺TEL075(956)0047。

【2007年6月8日掲載】