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(109)歌仙堂(京都市東山区)

漂う風流人の思い
歌人の聖地として親しまれる歌仙堂。梅雨空にもかかわらず観光客らが参詣する(京都市東山区・高台寺円徳院)
 梅雨の高台寺。塔頭の一つ、円徳院境内にある「歌仙堂」は、雨中にも歌人らの参詣が絶えない。祭られているのは同寺を創建した北政所ねねのおい、木下勝俊。桃山時代に大名として立身したが、その後に出家して長嘯子(ちょうしょうし)と名乗り、数多くの和歌を残している。
 勝俊はねねの兄、木下家定の長男。豊臣秀吉縁者の武将として二十六歳で若狭小浜城主に。一方、名人の細川幽斎に歌を学び、高い素養を持つ文化人として知られた。
 転機は一六〇〇(慶長五)年の関ケ原の戦。勝俊は前哨戦の伏見城攻防戦で徳川家康側の東軍の守る伏見城にいたが、城を囲んだ石田三成率いる西軍には実弟の小早川秀秋がいたため、戦わずに撤退。「北政所様を守るために」と高台寺へと向かったとされる。
 「あらぬ世に 身はふりはてて 大空も 袖よりくるも はつしぐれかな」
 この歌は勝俊が撤退時に詠み残したと円徳院に伝わっている。豊臣政権の急激な陰り、豊臣一族として栄えた兄弟が敵味方として相まみえる皮肉な状況…。歴史の荒波にさらされた心の高ぶりを表しているようにも思える。だが、この行為は、敵前逃亡の汚名を着せられて妻に離縁され、勝者となった徳川家からは裏切り者として領地を奪われてしまう。
 後藤典生住職(五九)は「こうなることは分かった上での行動に思える。歌からはすべてを捨てて生きることの覚悟を感じとれる」という。
 長嘯子の号を名乗った勝俊は三十歳すぎで出家し、文雅の道に入る。京都・東山の地でねねの近習として過ごす傍ら、当代きっての俳人・歌人の松永貞徳のほか、徳川幕府側の小堀遠州や林羅山、春日局らとも親交。死去する九十歳近くまで約六十年間、花鳥風月から恋愛まで数多くの和歌を残し、近世を代表する歌人として「歌仙」と称された。
 勝俊が東山で結んだ庵(いおり)は歌仙堂と呼ばれ、現在の建物は一九一七年にねねの墓がある高台寺に建てられ、歌人の聖地として親しまれている。後藤住職は言う。「勝俊からは幸せとは何かを考えさせられる。天下人の秀吉や家康の晩年より、すべてを捨てて風流に生きた長嘯子に人の幸せを感じないだろうか」
【メモ】高台寺円徳院は京都市東山区高台寺下河原町。TEL075(525)0101。市バス「東山安井」停留所から徒歩5分。境内には豊臣秀吉の念持仏「三面大黒天」もあり、毎月3日は縁日行事が催される。

【2007年6月19日掲載】

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