京都新聞TOP > 観光アーカイブ >ふるさと昔語り
インデックス

(111)五条天神の森(京都市下京区)

義経・弁慶 初の対面
現在はこぢんまりとしている五条天神宮。建立当時は六条まで続く広大な境内だった(京都市下京区)
 五条天神宮は平安遷都のころ、都の守護を目的に当時の五条通西洞院、今の松原通西洞院の一角に建立された。現在は社殿と一対の榊(さかき)のあるこぢんまりとした境内だが、造営当時は洛中最古の神社として南は六条まで広大な鎮守の森を有していた。平安末期の一一七〇年代、源義経が武蔵坊弁慶と最初に出会ったのはこの五条天神の森とされる。
 室町時代の「義経記」によると、六月のある夜に洛中で九百九十九本の刀を奪ってきた弁慶が千本目に良い刀が手に入るよう五条天神に祈願した。すると笛を吹く義経の気配が。両者はムクノキの下で出会う。義経の太刀を奪おうと弁慶は勝負を挑むも高さ九尺(二・七メートル)もの塀から飛び降りて宙に浮く義経の技にぼうぜんとする。
 この夜はそのまま引き分けた。両者は翌日、五条通東端の清水寺で再びまみえ、義経が勝ち弁慶と主従の誓いをしたという。
 両者の戦いの場に「五条の橋の上」が登場するのは、義経記を基にした御伽草子「橋弁慶」が成ったころからだが、その「橋の上」とはどこか。
 佐々部昭彦宮司(七五)は「かつての西洞院川にかかっていた西洞院橋かもしれない」と考える。現在は暗きょで、西洞院通の地中を流れるが、今も大雨が降ると通りに川のような流れができることもある。鴨川に架かる現在の松原橋の可能性もあるが、「暴れ川だった鴨川に橋が架かっていたとは考えにくい」と佐々部宮司は推測する。
 現在の五条通は当時の六条坊門小路。豊臣秀吉が伏見との交通の便を図り、五条橋を六条坊門小路へ移し替えたためとされる。「戦前の五条通は狭く、戦時中に戦火の被害を最小限にするため拡張された」と当時中学生の佐々部宮司。
 神社は応仁の乱など度重なる兵火に巻き込まれ、由緒書は残らない。頼るのは義経記などの書物の記述のみだ。昭和三十六(一九六一)年には鴨川の五条大橋西詰めに義経と弁慶の石像が完成した。義経と弁慶の物語は鎮守の森から橋の上へと対決の場を移したが、世紀を超えて私たちを楽しませ続ける。
【メモ】五条天神宮は別名天使(てんし)社。祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)で、厄よけや健康に御利益がある。京都駅から市バス50号系統立命館大学前行きで、西洞院松原下車すぐ。境内自由。TEL075(351)7021。日本最古の宝船図が残ることでも有名でミニ色紙がある。実物大は2月の節分祭で手に入る。

【2007年6月21日掲載】

各ページの記事・写真は転用を禁じます。著作権は京都新聞社に帰属します
ネットワーク上の著作権について 新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に(日本新聞協会)
電子メディアおよび関連事業における個人情報の取り扱いについて
京都新聞TOPへ