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(113)大友桜(大津市)

なぜか 花は咲かず
田の真ん中に立つ「大友桜」。今後は公園が整備され、住民の目に触れる機会も増える
 小さな老木のため、通りかかっても、たいていの人は、見過ごしてしまうだろう。地元で親しまれる「大友桜」は、青々とした水田に、ぽつんと立つ。あぜ道から近づくと、直径約二メートルの塚に、高さ一・五メートルほどの四、五本の細い幹が見える。
 大津市の史料によると、この木には二つの言い伝えがある。一つは、堅田地域に伝わる。六歌仙の一人で、滋賀郡の郡司を務めた大友黒主が、この地で手傷を負って亡くなる際、つえを地面に突き立てたところ、根が生えて桜の木になった。江戸時代ごろから、「大友桜」の名で呼ばわれるようになった、という。
 もう一つは、隣接する真野地域に伝わる話だ。この地の城主だった大友氏の娘・桜姫が、若くして亡くなった。菩提(ぼだい)を弔うために塚を築き、その名を後世に残すため、桜の木を植えたという。こちらでは「桜姫塚」と呼ばれている。
 「近くで工場が建てられる時、地面から桜の根っこがたくさん出てきたことがあった。昔から桜の多いところだったから、桜姫の話は考えられないこともないですね」。田を所有する真野学区自治連合会顧問の井上久仁治さん(六九)が話す。その名残からか、一帯の小字は「桜」という。
 ヤマザクラの一種というが、なぜか、この老木に花が咲いたのを見た人はいない。「姫の死を悲しんで咲かない」とも伝えられており、井上さんも首をかしげる。
 田のど真ん中にあり、農作業が大変だろうが、これまで大切に扱ってきた。井上さんによると、戦後まもなく、近くの森を開拓した住民が精神的に不安定になったことがあった。「森に住んでいたキツネが乗りうつったのかもしれない」と振り返る。昭和三十年代には、京都の大学の考古学者が研究のために、井上さん宅を訪ね、「塚を掘らせてほしい」と頼んだが、井上さんの父は「たたりがあるかもしれない」と思って断ったという。
 一帯はいま、市の区画整理事業の対象地になっている。市は「とても由緒ある桜なので、そのまま残したい」として、桜を中心とした公園をつくる計画だ。「百年後のまちづくりのためならやむを得ない」という井上さんは、「大友桜をイメージする公園になってほしい」と願う。
【メモ】大友桜は、JR湖西線の堅田駅の西約500メートルにある。木にちなんで、以前は、同駅までの道が「桜縄手」と呼ばれていたこともある。問い合わせは大津市真野公民館TEL077(572)1164へ。

【2007年6月27日掲載】

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