京都新聞TOP > 観光アーカイブ >ふるさと昔語り
インデックス

(116)やけん地蔵(宇治市木幡)

2度も火災を逃れ
2度の火災を霊験で無事に逃れたとの伝えが残る地蔵尊像(宇治市木幡・能化院)
 身の丈一・三メートル余り。鉄製と木製の二重扉の奥に安置されたその木像は、地蔵という呼び名からは思いもつかない大きい座像だった。
 地蔵尊像のある不焼山「能化院」はJR木幡駅の南西約百メートルの住宅街の一角に位置。京都市内にある曹洞宗・宗仙寺(下京区高倉通五条下ル)の末寺となっている。
 一九五六年の尊像修理の折に像の下から発見されたという古文書によれば、能化院は八〇二年の建立。時の征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷征討で守護神とした多門天の霊示を受け、桓武天皇の許しを得て建てたとされ、寺名も「多門山観音院本願寺」と称した。
 約二百年後。多門天は、今度は関白藤原道長のもとに現れた。道長が一族供養の寺を建てようと、木幡を訪れ観音院本願寺に泊まった。すると、多門天が夢の中で「地蔵菩薩(ぼさつ)は西方を守る菩薩。人々を教え導き、救う。ここにその像を安置しなさい」と告げたという。
 尊像を造ったとされるのは、源氏物語の「横川(よかわ)の僧都」のモデルといわれる恵心僧都。九八三年、僧都が四十二歳の時に彫ったと記した古い掛け札が同寺にある。
 その後、この地蔵尊像は不思議な力を発揮し、二度も災厄を逃れる。
 一一五九年、平清盛と源義朝の勢力争いに端を発した平治の乱で、義朝らの兵が木幡に攻め入り同寺を焼き払う。だが、尊像は火中から飛び出し近くの山に難を逃れた。この話は地元だけでなく都にまで広まり、不焼地蔵、「やけずの地蔵」「やけん地蔵」と呼ばれるように。さらに、これを伝え聞いた二条天皇が「不焼山能化院地蔵寺」の号を同寺に与え、今日の名の由来となった。
 奇跡はもう一度起きた。一二二一年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権奪回を狙った承久の乱で上皇が宇治の合戦に敗れ、北条氏率いる軍に寺を焼かれた。尊像は火中にあって、無事に残ったという。
 本堂に長くあった地蔵尊像は、現在は収蔵堂に安置されている。常駐していない住職に替わって像を守る兄弟夫婦がいる。その一人の居関瑛枝さん(六三)は「この近辺で大火が起きたことはない。地蔵さんのおかげと皆さんに言っていただいています」。霊験はいまなお健在だ。
【メモ】能化院は宇治市木幡中村。JR、京阪両木幡駅から、各徒歩約5分。TEL0774(31)5574。地蔵尊像は、藤原頼通の夫人が祈願して安産したことで、安産・子安の地蔵としても知られる。このほか、同寺境内には牛若丸と母の常盤御前が腰掛けたと伝わる庭石もある。

【2007年7月3日掲載】

各ページの記事・写真は転用を禁じます。著作権は京都新聞社に帰属します
ネットワーク上の著作権について 新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に(日本新聞協会)
電子メディアおよび関連事業における個人情報の取り扱いについて
京都新聞TOPへ