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(120)駒止地蔵尊(京都市下京区)

処刑者の無念弔う
高さ八尺の駒止地蔵尊。別名首切り地蔵とも呼ばれ、信仰を集めてきた(京都市下京区・蓮光寺)
 鴨川を下った六条河原の地はかつての処刑場として知られる。そこからほど近い蓮光寺(京都市下京区)の境内の一角。まつられている高さ約八尺(約二・四メートル)の石仏の大きな瞳を見つめると、心なしか気持ちが穏やかになる。
 同寺によると、石仏は弘法大師の作で六条河原の刑場にまつられ、多くの処刑者の霊を弔ってきたと伝えられている。石仏の名前は駒止(こまどめ)地蔵尊。いわれは、京で平家が隆盛を極めていた一一五八(保元三)年にさかのぼる。白河法皇がサイコロの目や山法師と並び、思うようにならないと例えた「鴨川の水」ははんらんを繰り返し、度々河原は土で埋まった。
 保元当時、平家のリーダー格だった平清盛が馬で鴨川の河原を進んでいた。その折に馬が急に動けなくなったので辺りを掘ってみると、大きな地蔵が出てきたため、駒止地蔵尊と名付けたという。
 以来、周囲から信仰を集めた駒止地蔵尊は、別名「首切り地蔵」とも称される。かつて蓮光寺で参拝していた篤信者が突然入ってきた盗賊に襲われた。その時に駒止地蔵尊が篤信者の身代わりになって首を切られて救ったとも伝えられている。
 石田三成など多くの武将が処刑されてきた六条河原に縁がある駒止地蔵尊がこれまで弔ってきた処刑者の中には同寺ゆかりの武将、長曽我部(長宗我部)盛親がいる。土佐の大名だった盛親は関ケ原の戦で西軍にくみし、戦場で戦う機会がなく撤退。敗戦の憂き目をみた。その後所領を失い、身分も奪われ、京の寺子屋で子供を相手に教えていた時期もあった。大坂の陣ではお家復興のため、豊臣方で参戦。夏の陣では藤堂軍に完勝するなど活躍したが、奮戦むなしく落城後、捕縛されて六条河原で斬首された。
 盛親の首級は生前に親交のあった同寺が引き取って葬り、いまも境内墓地に供養塔が残る。六条河原の処刑者の無念をいくつも見つめてきた「首切り地蔵」。同寺の森慶信住職(六〇)は「斬首をイメージさせる直接的な名前で表現されていますが、今でも処刑された人の子孫や高知県から盛親公を慕う人が訪れ、不思議な力を感じます」と話している。
【メモ】京都市下京区富小路通六条上ルの蓮光寺TEL075(351)3066は、知恩院を本山とする浄土宗の寺。本尊は仏師の快慶作と伝えられる阿弥陀(あみだ)如来で負別如来と称され、親しまれてる。住職と親交のあった長曽我部盛親の首を葬ったゆかりの寺として知られ、盛親の鎧(よろい)の一部や刀などの遺品も数多い。

【2007年7月10日掲載】

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