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(131)みこしの奪い合い(高島市安曇川町)

水争いの歴史伝え
近郷のみこしが集まったとされる馬場の跡地(高島市安曇川町青柳)
 安曇川が琵琶湖に流れ込む扇状地を形成する高島市の安曇川町と新旭町には水争いの伝承が多い。安曇川町西万木(ゆるぎ)とその下流に当たる同町青柳の、みこしの奪い合いもその一つ。水が原因で集落挙げて対立した歴史を伝えている。
 「安曇川町昔ばなし」によると、青柳の集落近くの馬場に近郷のみこしが集まった際、青柳の若い衆が酒を飲んで昼寝をした。その間に西万木の若い衆が青柳の「三の宮みこし」を先に担いで帰った。以来西万木の宵宮の夜は、みこしを取り返されないように一睡もせずに見張ったという。
 青柳で織物工場を経営する杉本儀兵衞さん(八一)は、みこしが取り換えられたかどうかの真偽は分からないとしながらも、青柳でも「五月十五日のお宮さんの例祭には、前夜から若い衆が火をたいて不寝番をするのが常だった」と子どものころを振り返る。
 杉本さんは、▽深夜に西万木の水田に侵入し張ってあった水を青柳に流した▽嫁を西万木の実家に帰し親せき付き合いを絶った−などの話も聞いたことがある。子どもたちも相手の集落内を通るときは石をぶつけられないよう、全速力で走り抜けたという。
 一九八〇(昭和五十五)年に地元の伝承をもとに作られた「安曇川町昔ばなし」はこんな話も伝える。一八七七(明治十)年に学制が敷かれた際に青柳に学校ができた。当時は青柳も東万木と呼ばれる万木村の一部だったのに、水争いがもとで西万木は青柳小ではなく安曇小に通うようになったという。
 もちろん争いばかりではなかった。青柳の役員が羽織はかまの正装で、西万木に水を分けてくれるよう頼みに行ったりもしている。だが安曇川町には「嫁にゆくなら三重生(みおう)・庄堺、水もこまんし、日焼けもせんし」と上流の集落をうらやんだ歌も残る。コメの作柄は安曇川の水量次第。限られた農業用水を隣村と争う緊張関係は戦後の合同井堰(いせき)建設まで数百年間続いた。
 合同井堰は、それまであった各井堰を一つにしたもので、扇状地の要の位置に当たる高島市安曇川町長尾と同市朽木荒川の境に建設された。一九四九年度に着工し六二年度になって井堰と両岸の幹線と支線の水路がすべて完成、流域内の集落に均等に水が行き渡るようになり、下流の集落もようやく水不足から解放された。
 長く対立した青柳と西万木。今では年二回、協力して合同井堰の清掃を行っている。
【メモ】青柳と西万木はともに、高島市として合併する前の旧安曇川町中心部。JR安曇川駅がある西万木には商店が多く立ち並ぶ。町の特産品の扇骨を使った扇店もある。青柳には国道161号沿いに「道の駅藤樹の里あどがわ」や安曇川図書館がある。中江藤樹の故郷の上小川は南隣に位置し、藤樹神社や記念館、藤樹書院、墓所などの史跡には訪れる人も多い。

【2007年8月3日掲載】

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