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(139)三宅八幡宮(京都市左京区)

かん虫封じ今なお
子どもの無事を祈って奉納された絵馬。幕末には、かん虫封じなどの信仰が広がっていた(三宅八幡宮)
 かんの虫封じや病気平癒など子どもの守り神として知られる三宅八幡宮。特に明治時代から昭和の初めにかけて熱烈な信仰を集め、子どもの無事を祈って訪れる人が絶えなかった。
 「多い時には一日に五、六十件も祈祷(きとう)の申し込みがあったよう。私が子どものころでも、叡山電鉄三宅八幡駅前に乳母車を貸し出す店があったほど」と菅原武弘宮司(七一)。現在も祈祷を受ける理由の約三分の一が、かんの虫封じと夜泣き止めで最も多い。
 同神社はもともと、田の虫よけの神として敬われていた。いつ、どういう理由で子どもの神の信仰に変わったのか分からないが、一八五二年に子どもを描いた絵馬が奉納されていることから、このころには一定の知名度があったようだ。
 こうした信仰が一気に広がるきっかけになった言い伝えがある。幼い祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)が病を患った際、女御(にょうご)が同神社に使いを出して平癒を祈願した、というのだ。この話は、宮内省(当時)が大正−昭和初期にかけて編さんした「明治天皇紀」も触れている。同書によると、北野天満宮などにも使いが出たほか、高僧が加持を行うなど周囲の心配ぶりが伝わるが、なぜ洛中から離れた同神社が選ばれたのだろう。
 京都市文化財保護課によると、傍証として▽明治天皇の生母・中山慶子は一時、隣接する修学院村に里子に出されていた▽同神社の近くに女官を輩出する家があった▽もともと皇室とかかわりが深い土地柄−が挙げられるという。こうした背景から、女御らの頭に同神社が浮かんだのかもしれないが、資料が乏しくはっきりとはわからない。
 この話が世に広がると、参拝者が急増した。学区や団体での参拝も珍しくなかったようだ。六百人を超す親子の参拝を描いた明治初年の絵馬も残っており、盛況ぶりがうかがえる。大正末の記録では、祈祷を受けた人の約七割が三歳以下なので、かんの虫封じや夜泣き止め祈願が多かったのではないか。
 菅原宮司は「医学の発達もあり、かんの虫封じで祈祷を受ける人は昔ほど多くはない。それでもインターネットで調べて来る人もあり、子どもの無事を願う気持ちは今も変わらない」と話している。
【メモ】三宅八幡宮には、子どもの無事などを祈って奉納された絵馬が伝わっており、幕末から昭和初期にかけての133点は市の有形民俗文化財に指定された。一部は週末のみ、同神社で公開している。

【2007年8月17日掲載】

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