京都新聞TOP > 観光アーカイブ >ふるさと昔語り
インデックス

(140)今里大塚古墳(長岡京市天神)

「たたり伝説」愛着も
墳丘にフェンスが張られ、公園となった今里大塚古墳(長岡京市天神5丁目)
 古墳時代後期、七世紀前半の造営と推定される古墳で、江戸時代の地誌「山州名跡志」に「小山のごとく」と書かれているように、古くから巨大な古墳として知られていた。
 「古墳にくわを入れたらたたりがある」。誰とはなしに言い伝えられてきた。地元に生まれ育った斉藤清一さん(八〇)=長岡京市今里一丁目=は「僕のおやじやおじいさんのころから、たたりのことは言われてきた。古墳が天皇陵ではないかと昔の人は思っていたようで、それと関係があるのかも」と推測する。
 その古墳が、サツマイモ畑に姿を変えた時代があった。
 太平洋戦争が始まった三カ月後の昭和十七年三月、日本中で食糧増産の必要性が高まるなか、地元の青年団「今里青年会」が古墳の開墾を主張した。もちろん、村の古老は「あそこは乙訓の主が眠る場所。絶対にくわを入れてはならん」と反対。だが、深刻な食糧不足の時にたたりを気にしてはいられないと、青年団長らは開墾を強行、古墳上部の約百坪にサツマイモの苗を植えた。
 その年の七月中旬。畑には肥料も施されイモが順調に育っていた時、開墾の必要性を熱心に説いていた青年団の副団長が病に倒れた。そして回復することなく一週間後に亡くなってしまった。「偶然やと思うけど、村のみんなは『やはり…』という雰囲気だった」。当時、新入りの青年団員として開墾に参加していた斉藤さんが振り返る。
 今里大塚古墳にまつわる伝説は、戦後も尾を引いた。草刈りのために古墳に入ろうとしても、神聖な場所だから足を踏み入れてはいけないと主張する人もいたという。
 ただ、斉藤さんの幼いころは古墳は遊び場だった。草がいっぱいの場所は牛の放牧場としても重宝されていた。斉藤さんは「たたりの伝説は、あくまで古墳に対する誇りから来ていると思う。だからこそ、古墳に名前をつける時に『今里』の言葉を入れようとこだわったんです」と語る。
 今、今里大塚古墳は公園として整備され、災害時の避難所の役割も担う。墳丘部分にはフェンスが張られ、入れないようになっている。
【メモ】阪急長岡天神駅から北西約1キロの場所、住宅街の一角にある。直径45メートルの円墳だとされているが、前方後円墳との説も残る。横穴式石室は山城地方最大級とされるが、石室の石材は長岡京を造営する際に破壊された形跡がある。

【2007年8月21日掲載】

各ページの記事・写真は転用を禁じます。著作権は京都新聞社に帰属します
ネットワーク上の著作権について 新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に(日本新聞協会)
電子メディアおよび関連事業における個人情報の取り扱いについて
京都新聞TOPへ