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(147)長安寺の牛塔(大津市)

復興に献身的働き
寺の復興を助けた霊牛を弔うために建てられた牛塔(大津市逢坂2丁目・長安寺)
 大津市の西南端、国道1号から分岐した161号を少し北に走り長等公園の方に入ると、木立に囲まれた長安寺(大津市逢坂二丁目)の本堂へ続く階段が見えてくる。階段を上ると、その中ほどには「牛塔」とよばれる高さ三・三メートルの石造宝塔があり、昔、この一帯にあったとされる関寺の復興を助けた霊牛についての言い伝えが残っている。
 逢坂関からその名をとったとされる関寺は、詳しいことは分かっていないが、大規模な寺だった。『長安寺由緒』によると、寺には平安時代の日本三大仏の一つとして五丈(約十五メートル)の弥勒(みろく)仏が安置されていたほか、巨大な楼閣や三重の塔もあったとされる。
 しかし、天延四(九七六)年六月十六日、畿内で大地震がおきた。『関寺縁起』などによると、このとき寺のお堂や大仏の多くが壊れてしまった。それから約四十年後、恵心僧都源信(九四二−一〇一七)らによって関寺復興工事が始まり、治安二(一〇二二)年に、ようやく本堂が落成したとされる。
 この工事のとき、京都の清水寺の僧が資材の運搬用に関寺に寄進した一頭の牛が大いに工事を助けたと伝えられている。
 牛は琵琶湖の水運を利用して浜大津に集められた重い資材を運びながら逢坂峠の急な坂道を何往復もし、その働きぶりから人々の間には、「尊い牛だ」「仏の化身で寺の修復を助けに来たのだ」といううわさが立ち始めた。このうわさは京都へも広がり、藤原道長(九六六−一〇二七)をはじめ、時の権力者が牛のもとを訪れ参拝するようになった。
 万寿二(一〇二五)年、関寺の工事がすべて終わると、牛は本堂の周りを右回りに三度回り、数日後には死んだと伝えられている。牛のこの行動について、長安寺の下村孟住職(七七)は「右遶三匝(うじょうさんそう)と言います。インドの言い伝えでは、修行僧が仏像に対して行う礼法です。信心深い牛だったのでしょうな」と解説する。牛の死後、供養のため、道長の息子の藤原頼通(九九二−一〇七四)が石塔を建てたと伝えられている。
 その後、関寺は、鎌倉時代に起きた山門派と寺門派の抗争や関ケ原の合戦などで焼失し衰退したとされる。江戸時代初めには関寺は時宗の長安寺へと名前を変え、石塔もこの寺へと引き継がれることになる。
 現在では長安寺を訪れる人は少ない。しかし下村さんは「石塔はかつての寺の隆盛と霊牛の雄々しさを伝えている」と話している。
【メモ】石塔は八角形の基礎石の上に、巨大なつぼ型の塔身を置き、六角形の笠石をのせた形で、平安末期の作と言われている。長安寺へは京阪京津線上栄町駅から徒歩2分。問い合わせは長安寺TEL077(552)0491。

【2007年9月4日掲載】

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